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古寺巡礼コミュの欣求の道  13番 建部大社

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大津の瀬田の唐橋は有名ですが、その近くに鎮座されております大社です
滋賀県、欣求の道
(145)近江國一宮
建部大社(たてべたいしゃ)
住 所 〠 520―2132 滋賀県大津市神領1丁目16−1
電話番号 電話 077―545―0038
御 祭 神 日本武尊
開 祀 景行天皇46年
アクセス JR琵琶湖線石山駅下車徒歩22分
<神歴・縁起> H/P ありません
式内社 近江國栗太郡 建部神社 名神大 近江國一宮
旧官幣大社
御祭神
日本武尊
相殿 天明玉命 権殿 大己貴命

 古来建部大社、建部大明神と称え、延喜式内名神大社に列し、近江国一ノ宮として朝野の崇敬篤い古社である。
景行天皇46年神勅に御妃布多遅比売命が御子稲依別王と共に住まわれた神崎郡建部の郷に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年に近江国府の所在地であった当瀬田の地に遷祀された。
当社は歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑がない、殊に源頼朝は平家に捕われ14才にして伊豆に流される為、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160)当社に参籠して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って建久元年(1190)右大将として上洛の際再び社前に額き、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされた。
明治18年(1885)官幣中社に、続いて同32年官幣大社に列した。
昭和50年御(1975)鎮座1302年大祭を斎行し、これに伴う記念事業の完遂により御社頭は面目をあらたにした。続いて昭和52年「建部大社」と改称された。
創祀年代は不詳。
社伝では、景行天皇46年稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳4年、勢田郷へ遷座したという。

 祭神は、現在、日本武尊を主祭神とし、相殿に、天明玉命を祀り、天平勝宝7年(455)、大和三輪より大己貴命を勧請し、権殿に祀る。
祭神に関する考証は古来多く行われ、日本武尊説、大己貴命説、稲依別王説の3通りあり。
建部大社が、建部君がその祖神を祀ったと考えられ、大己貴命は、後から勧請されたと考える説が有力。建部君は、日本武尊の子・稲依別王から発した犬上建部君と、おなじく日本武尊の子・稚武王を祖とする近江建部君があり、どちらが、当社の創祀にたずさわったかによって、稲依別王とする説も、考えられないことではないが、どちらにしろ、日本武尊で良いのではないかと思う。
 稲依別王に関しては、古事記では、日本武尊と安国造の祖・意富多牟和気の女・布多遅比売との間に生れた子。日本書紀では、両道入姫皇女との子。
 社殿は、日本武尊を祀る正殿と大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る権殿が並び立ち、拝殿左右に未社が並んでいます。社宝としては、平安時代の作で日本武尊の妃といわれる木造女神像があります。境内にある石灯籠とともに重要文化財に指定されています。毎年8月17日に行われる船幸祭(せんこうさい)が有名です。境内の大野神社は縁結の御利益があります。〈重文〉木造女神坐像 石灯籠
建部大社 名神大(『延喜式神名帳』)従四位上(六国史終了時)
比定社 建部大社(滋賀県大津市神領一丁目)
貞観元年〜元慶8年(859―884)
『日本三代実録』貞観2年2月辛亥朔条(860)
近江国建部神列二於官社一。
『日本三代実録』貞観5年6月8日己亥条(863)
授二武蔵国従五位下氷川神正五位下。甲斐国従五位下勲十二等物部神。美和神従五位上。近江国正六位上建部神従五位下一
『類聚国史』16(神祇16神位4)・貞観10年7月11日壬寅条(868)
授二近江国建部神従四位上一。
『延喜式』3(臨時祭)・名神祭条〔28〕
名神祭285座。建部神社1座 この項国学院大学H/Pよりコピー
建部大社の栞に由緒として
近江一の宮
  建部大社
御祭神
 本殿 日本武尊
 相殿 天明玉命
 権殿 大己貴命
由緒
当社は近江国の一の宮と称えられ、景行天皇46年(316)4月神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊の御神灵を建部大神としてお祀りしたのが創りである。
天武天皇白鳳4年(675)4月に近江国府のあった瀬田の地にお迂し、此の国の守護神として仰ぎ奉られる様になった。天平勝宝7年(755)には孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿に奉祭せられ現在に至っている。
例大祭 4月25日 船幸祭 8月17日
 当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に記されているのであるが、これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の46年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の当大社である。
 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160)3三月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。
頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(1190)11月右大将として上洛の際再び社前に額き襄年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される所以であり、明治18年4月官幣中社に、同32年7月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。そして平成2年3月17日には本殿遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。と記載されています。

神門

拝殿

権殿     本殿
本殿は、二棟並んだ流造。西側の社殿は権殿とよばれるもの。権殿とは、仮殿のことで、本来は社殿造営時に神を仮に遷し祀る建物のこと。現在は、この権殿に大己貴命が祀られている。

拝殿左の境内社          拝殿右の境内社
蔵人頭社 行事社 大政所社 聖宮社 藤宮社 若宮社 弓取社 箭取社
向って左側の境内社、左から、
末社・蔵人頭神社(七掬脛命,料理の祖神)末社・行事神社(吉備臣武彦 大伴連武日)摂社・大政所神社(播摩稻日太郎媛) 摂社・聖宮神社(大足彦忍代別命)
 右側の境内社、右から、末社・箭取神社(石占横立 田子稻置 乳近稻置)
末社・弓取神社(弟彦公) 摂社・若宮神社(稻依別命) 摂社・藤宮神社(布多遲比賣命)

縁結び 大野神社     国宝木造女神坐像

神仏霊場 ご朱印
                 
本殿                         鳥居

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