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古寺巡礼コミュの欣求の道  8番 永源寺

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近江商人が鈴鹿峠を避け桑名方面に出向くのに使った街道の近くにある臨済宗永源寺派大本山です
滋賀県、欣求の道
(140)瑞石山 
永源寺(えいげんじ)
住 所 〠 527―0212 滋賀県東近江市永源寺高野町41
電話番号 電話 0748―27―0016
本  尊 聖観音像
開 山 寂室元光禅師
創  建 康安元年(1361)
アクセス JR近江八幡下車 近江鉄道八日市下車 バス
<寺歴・縁起> H/P  http://eigenji-t.jp/
臨済宗永源寺派総本山(東福寺派より分離独立1880)

 末寺百余ヵ寺を統率する臨済宗永源寺派の大本山。南北朝時代の康安元年(1361)、近江の守護職佐々木六角氏頼が寂室元光禅師をこの地に迎え、七堂伽藍を造立した。これが開基とされています。
 元光の高風を慕って2000余人もの僧が参集し、元光の没後も弥天永釈・松嶺道秀・霊仲禅英・越谿秀格などの徳僧が輩出して法灯を継ぎ、寺運は隆盛。
応永年間のころ(1394〜1428)には、京洛の戦火を避けて、五山文学史に名を残す横川景三をはじめ、瑞仙桃源・景徐周鱗といった著名な学僧・詩僧が相ついで永源寺に留錫し、学芸の衰えた京都の漢文学や詩文の伝統は、一時この湖東の山間で保たれるという時期もありました。
 その後、明応元年(1492)、永禄7年(1564)、元亀2年(1571)の3度の失火や兵火に焼け落ちて衰えたが、江戸時代はじめの寛永8年(1631)別峰紹印が入山して再興。寛永20年には、後水尾天皇の勅命によって一絲文守禅師が住持となり、彦根藩主井伊氏の外護もあって諸堂が造立され、寺観が整えられました。
 寺域は愛知川の右岸に迫る山腹に位置し、カエデに囲まれた崖沿いの約120段の石段を、十六羅漢石像を見ながらたどると総門、ついで享和2年(1802)建立の5間3戸の楼門(山門)が現れます。楼門(山門)の奥には、明和2年(1756)建築の、屋根ヨシ葺きの大きな方丈(本堂)、安永元年(1772)に建てられた鐘楼、享保13年(1728)造営の法堂、延宝4年(1676)建立の経堂、正保4年(1647)造立の含空院(歴代住持の居所)、享保9年(1724)再建の開山堂などがいらかを連ね、その間をカエデの老樹がうずめています。
 本堂前のよく掃き清められた庭がすがすがしく含空院の庭園も、池泉と木石の調和が見事な名園として知られています。秋は全山紅葉に包まれ愛知川の流れを朱に染めるのです。
 本尊の聖観音像は秘仏で、俗に“世継ぎ観音”とも呼ばれています。これは、佐々木六角氏頼が、この像に祈願して長男を授かったという伝説によるもので、今も子授けの観音様として信仰を集めています。
 関西紅葉の3名所の1つとして有名なこの寺にはシーズン中は多くの参詣者があるが、近年では四季を問わず学校や企業、団体の研修道場として自己を見つめ直す場として活用される事も多くなった。
 また、永源寺の開祖、寂室元光禅師の誕生日(5月15日)を祝して5月中旬に、寂室禅師奉賛大茶会が開催され、関西の各宗家が一同に集まり盛大に行われます。静けさを満喫するのに最も良いといわれるこの頃は、木々が新緑に輝いて美しく、当日は和服姿の女性たちが艶やかな花を添えてくれます。

総門
 永源寺境内に入って最初にくぐる門。康安元年(1361)佐々木氏頼によって創建されたが、明徳元年(1390)兵火にかかり焼失。以後寛正5年(1464)に第16代虚白文玄禅師が再建。寺内の建造物では最も古い。四脚門の形式で、門の両側に土塀をつけた風格のある総門である。

山門
 山門:寛政7年(1795)123代丹崖禅師が彦根城主井伊家に図り建立に着手。7年の歳月をかけ享和2年(1802)霊隠禅師のとき完成した。楼上には釈迦三尊と十六羅漢がまつられている。

本堂              内陣
 安心寺と号し、佐々木氏頼によって創建。しかし、たび重なる兵火、火災によって焼失の難にあった。現在の建物は、明和2年(1765)第112代拙堂禅師の時、井伊家の援助により建立されたもので屋根は葭(よし)葺きである。正面には本尊世継観世音菩薩、脇壇に一絲国師の尊像、歴代住持の位牌、井 伊家及び檀信徒の位牌が奉安されている。本堂隣の庫裡も兵火にあい、明和元年(1776)第117代怡山全育禅師の時に再建された 。庫裡は昭和54年(1979)雄峰禅師のとき改築された。現在は坐禅研修の道場として使われている。
 法堂
 大雄宝殿と称し、佐々木氏頼によって創建。明応元年(1492)、永禄19年(1563)の兵火によって失われたが、寛永19年(1642)第79代空子禅師が再建された。しかし享保9年(1724)の火災により再び焼失。享保13年(1728)第104代朴宗禅師が再建されたの が現在の建物である。正面には後水尾天皇ご寄進の釈迦、迦葉、阿難の三尊像が安置されている

含空院
正燈国師の塔庵として永和3年(1377)一  
渓純庵主のとき、考槃庵の名で建立。応永  
21年(1414)8月将軍足利義持公が来山、
名を含空院と改め第3代松嶺禅師に額を
寄進された。当時の建物は永禄6年(1563)
の兵火で焼失。正保4年(1647)第81代如
雪文 巌禅師によって再興されて以来、歴代住持の住居となっている。



十六羅漢
大歇橋を過ぎ、参道の120段の石段(羅漢坂)を登りつめると、 左の岩山に釈迦・文殊・普賢像と十六羅漢の石仏が奉安されている。制作年代や作者も不明だが、おそらく歴代の住持が祈念して彫られたものであろうといわれている。仏像はそれぞれ違ったユニークな表情をしている。





























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