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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 46番 醍醐寺

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豊臣秀吉公の花見でも有名な醍醐寺ですが西国33所では奥ノ院と云うべき上の醍醐が有名で若者のマラソンの練習場となったり遍路姿の人々が行きかう巡礼の地でもあります
京都府、楽土の道
(126)深雪山 
醍醐寺(だいごじ)
住 所 〠 601―1383 京都市伏見区醍醐醍醐山1
電話番号 電話 075―571―0002
本  尊 准胝観世音菩薩
開 山 聖宝理源大師
創  建 貞観16年(874)
アクセス JR山科駅・六地蔵駅、京阪バス乗車、醍醐三宝院下車、女人堂まで徒歩約25分
<寺歴・縁起> H/P http://www.daigoji.or.jp/
真言宗醍醐派(総本山)真言宗18本山第12番 西国33所第11番(上醍醐)
近畿36不動尊第23番(上醍醐) 西国薬師49霊場第39番
役行者霊跡札所 神仏霊場126番

 醍醐寺は聖宝理源大師が貞観16年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、
延喜7年(907)には醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。
醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において重要な地位を占めている。そればかりでなく、政治の中心にあった人達との交渉も深く、例えば藤原一族に代わって大きい権力を持っていた権門源俊房の系統(醍醐源氏)の人が座主として幾代も続いた。そして座主勝覚(俊房の息)の時代に山上・山下共に伽藍がことごとく整備され、永久3年(1115)に三宝院が建立され醍醐寺発展の基礎が確立されたのである
 その後、隆盛を極めた醍醐寺も長い年月の間に幾度かの火災と殊に応仁・文明の大乱の余波とによって下伽藍堂宇はことごとく灰燼に帰してしまったが、幸いにも五重塔だけが難を逃れ、天暦盛時の姿を今に留めている。また上醍醐・准胝堂は“西国第11番札所”として、五大堂は“五大力さん”信仰の中心として、広く信仰を集めて現在に至っている。
藤原末期から鎌倉時代にかけては、政治的変動から遠ざかり小野法流・教学の充実がはかられた時期となった。そして、まず醍醐寺の歴史を明確にするために、「醍醐雑事記」15巻が慶延によって編集された。また教学研究の成果の一部として現在でも多数の密教絵画、聖教類と共に仏像研究のために描かれた図像抄、白描図像が多く残されている。 南北朝時代には醍醐寺内部において、後醍醐天皇と弘真(文観僧正)、足利尊氏と賢俊の交渉などがあって、二派にわかれて対立した状態が続いた。その当時の政治的緊張を示す資料がいくつか残されている。特に政治の中心と交渉を深く保って、伽藍の復興、寺門の整備に大いに力を尽くしたのは、応永・永享年間のころ座主であった満済准后と桃山時代の義演准后である。この両者は共に詳細な日記を残していて、その対外的活躍の概略を知ることができるが、それにもましてこの人達が文化財の保存に心を尽くしていたことが、裏書や奥書などによって知られる。また義演准后は豊臣秀吉と関係を持って、その力によって伽藍、三宝院殿舎・庭園の復興をなすと共に、一代の英雄の最後をかざる善美を尽くした醍醐の花見を催させたことによって知られた人である。
江戸時代に入り、修験道中興の祖・聖宝により継承されてきた三宝院に属する修験(山伏)を「当山派」と称する許可を幕府より得、座主高賢の大峯入峰により醍醐の教風がひろまっていった。現在もその法流を汲み花供入峰修行が行われている。
江戸末期の混乱と明治維新以後の変革の波は大きく、仏教各宗派全般の傾向にしたがったように、大小幾多の子院は廃亡し伽藍と中心的子院だけが残った。現在ではそれらの建築の主要なものの多くが、国宝や重要文化財に指定されている。また一山の宝物・十数万点は霊宝館に収蔵保存され、春秋二期に陳列して一般に公開されている。

仁王門
 豊臣秀頼が金堂の再建の後、慶長10年(1605)に再建したもの。そこに安置されている仁王像(重文)は、もとは南大門に祀られていた尊像で、平安後期の長承3年(1134)に仏師勢増・仁増によって造立された尊像です。体内の墨書、納札等に南大門から移された経緯などがかかれています。

金堂              内陣
金堂 国宝 平安時代 五重塔の北西に位置する桁行7間、梁間5間、一重入母屋造り、本瓦葺の堂で外陣とし、周囲に廻縁をめぐらしている。延長4年(926)創建の金堂は大仁3年(1295)に焼失し、再建後の金堂も文明2年(1470)に大内氏の勢いにより焼失した。その後再建はならなかたが、豊臣秀吉の醍護寺再興の支援を受けて、慶長5年(1600)に紀伊国(和歌山県)有田郡湯浅村の万願寺本堂を解体して移築した事が移築寺の棟札銘よりわかる。
 内陣 国宝 平安時代 金堂は鎌倉時代末期に修理がおこなわれ、慶長5年の移建時及び近世に入ってからも改修が施される等当初のままではないが、内部上部に組まれた出組みの組物は材料も古き、平安末期の様式を示していることから、元来の建築年代は平安時代末期から鎌倉時代初期と考えられる。須弥壇の上には湯浅っから運ばれてきた本尊薬師如来坐像などが祀られている。

本尊 薬師如来坐像
木造 像高132.1Cm 鎌倉時代 重文
 右手を上げ、左手に薬壺を持つ。頭髪を群青、眉や口元を墨や朱で彩色するほかは素地のままで、白檀などの香木で作る壇像を意識した仕上げとなっている。ころもには後の修理により、截金で幾何学模様があらわされる。脇侍は日光菩薩、月光菩薩。奈良を中心に活躍した仏師禅円の作とする説がある。

五重塔         五重塔初層内部
 五重塔 国宝 平安時代 3間5重の塔婆で本瓦葺、高さ38.2mの安定感のある堂々たる五重塔で、京都に遺るものとしては最古である。「第五雑寺記」によれば、証言元年(931)朱雀天皇が醍醐天皇の冥福を祈って建立を発願、20年を経た天歴5年(951)村上天皇の御宇に完成し、翌年に塔供養が催行された。
初僧内部に描かれた両界曼荼羅、真言八祖像はじめとする壁画は、醍護寺最古の密教絵画と云うばかりでなく、類例の少ないこの時期にあって我が国絵画史上貴重な作品となっている。

不動堂
 堂内には不動明王を中心に五体の明王を安置しています。また、堂前の護摩道場では、当山派修験道の柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願を行っています。

真如三昧堂
もとは朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦3年(949)に創建されましたが、文明2年(1470)に焼失。現在の堂は平成9年(1997)に真如三昧耶堂として建立されました。

大講堂               内陣
 明治から昭和にかけて活躍した実業家で京都市中の奥の寺院の復興を援助した山口玄洞が、昭和5年に真言僧侶の育成道場として寄付、建立した建物。
石を積み上げた土台の上に雄大な屋根を持つ宝形造りの大建築が建つ。

成身院(女人堂)
 上醍醐への登山口にあり、昔は女性が此処から山上の諸仏を拝んだことから、通称「女人堂」といわれています。現在の本堂は江戸初期の再建といわれ、本尊には、山上の准胝観音の分身が祀られています。本堂前には山側から不動明王、理源大師、弥勒菩薩、役行者、地蔵菩薩が祀られています。

上醍護寺
 上醍醐の中心である准胝堂は、貞観18年の創建と伝えられていますが、現在の建物は、昭和43年に再建されたものです。本尊・准胝観世音菩薩は秘仏ですが、毎年5月18日に御開扉(ごかいひ)法要が営まれ、前後3日間だけご開帳されます。
また、五大堂の本堂には、本尊として不動明王を中心に五大明王が奉られています。、毎年2月23日に五大力さんとして下伽藍金堂で授与される”御影(みえい)”は、この五大堂で一週間に亘って祈願されたものです。

醍醐水
 ここがまさしく聖宝・理源大師が山上に立てた隠遁場所です。大師は霊感によってこの泉を発見されました。今でもこの霊水を飲むことができます。
参詣の人が多い場合は足元に気を付けて(足元が濡れている)

清瀧宮拝殿         清瀧宮本殿
 清瀧宮拝殿は室町時代の建物で、寝殿造りの手法を生かした気品ある風格を備えています。山腹をわずかに切り開いて前面が崖にさしかかる懸造り(かけづくり)の構造になっています。

薬師堂       薬師如来坐像
国宝 平安時代(保安2年)
 上醍醐の伽藍の中央に位置する建物で、はじめ延期7年(907)に醍醐天皇の発願で建立される。現存する建物は保安2年(1121)に第15世座主定海により再建されたもの。桁行5間、梁間4間、一重入母屋造り、檜皮葺。上醍醐に遺る平安時代唯一の遺講で、簡素で力強い姿の仏堂。

日光菩薩 月光菩薩
国宝 平安時代 木造 像高 薬師如来176.5Cm 日光120.1Cm
月光120.9Cm 
 薬師堂の本尊。中尊に薬師如来坐像、両脇侍に日光菩薩、月光菩薩が祀ってある。(現在は不慮の災害などに備え霊宝館に安置)醍醐天皇が発願により理源大師聖宝が造像を開始し、死後弟子の勧賢が遺志を継いで延喜3年(913)頃に完成した像である。三尊とも一木造り、表面に漆箔を施す。聖宝の弟子、会理僧都の手になる醍護寺工房制作の数少ない遺品として高い評価がある。

開山堂
重文 桃山時代
表側を正面とする桁行き8間、梁間5間の規模の廊堂形式の入母屋造り建造物で、豪華華麗な彫刻を多用して、各所を装飾している。「醍護寺新要録」によれば、慶長11年(1,606)に豊臣秀頼が開山堂、如意輪堂、五大堂の山上三堂宇の再建を発願し、同13年に竣工を見た。内部の正面は軒唐破風付きの厨子で、中央に開山理源大師聖宝、右に大1世観賢僧正、左に弘法大師の御影を祀る。

如意輪堂
重文 安土桃山時代(慶長11年)
五大堂からやや離れた高所にあり、桁行5間、梁間3件、一重入母屋造り、妻を正面とする杮葺で懸造りの仏堂。如意輪堂は慶長10年(1605)の失火により開山堂、五大堂、と共に焼失したが、翌年豊臣秀頼により再建された。堂下の岩魂は、定観開眼の日に如意輪観音菩薩が飛行して、その上に立たせられたと云う奇端を伝える。

五大堂
 五大堂は開山堂の向かって左手にある建物で、昭和7年(1932)に焼失し、同15年に再建された。草創は「仁王護国般若波羅密多経」に基づき、鎮護国家、万民豊楽を祈願する道場として開山聖宝により建立されたと伝える。本尊に五大明王が祀られている。(五大明王は重文指定)五大明王は盗難よけ、災難身代わりとして近年参詣する人が多くなったという。

五重塔羽目板絵断片

落雷で焼失する前の准胝堂          内陣
 准胝観音像を本尊とし、西国33所の札所として知られる。聖宝僧正が醍護寺の開創にあたり、自刻の准胝観音を祀られた草堂をもって草創とする。以後たびたび火災にあっている。

西国33所 御詠歌ご朱印

                           不動明王画像

神仏巡礼 ご朱印

不動明王坐像

                   近畿36不動尊 ご朱印

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