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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 42番 今熊野観音寺

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観音寺と号する寺院は観音正寺や00観音院等多く存在する。ここの観音寺は
今熊野観音寺と通称で呼ばれています。隣り合わせの泉涌寺の塔頭でボケ封じの祈祷でも名の知れた寺です
京都府、楽土の道
(122)新那智山 
今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)
住 所 〠 605―0977 京都市東山区泉涌寺山内町32
電話番号 電話 075―561―5511
本  尊 十一面観世音菩薩
開 山 弘法大師
創  建 天長年間(824〜834)
アクセス JR・京阪電車東福寺駅下車 徒歩15分
<寺歴・縁起> H/P http://www.kannon.jp/
真言宗泉涌寺派(総本山 泉涌寺)西国33所15番 京都七福神(恵比寿)
洛陽33所19番 近畿十楽観音1番 神仏霊場122番

 平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見られました。
不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が姿を現わされ、「この山に一寸八分の観世音がおわしましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに1宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」と語りかけられ、またそのときに1寸8分の十一面観世音菩薩像と、1夥の宝印を大師に与えられました。
この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。
大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから1尺8寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった1寸8分の像を体内仏として納め、奉安されたのが当山のはじまりです。弘法大師御作のこの観世音菩薩像は秘仏として大切にまつられ、1200年の長きにわたって衆生を利益し続けておられます。
またこの時に大師が、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。
 草創期については諸説あるのですが、一般的に知られている事は、
大同2年(807)、弘法大師(774〜835)が熊野権現のご霊示を受けてこの地に庵をむすばれた。すなわち大師が唐の国で真言密教を学んで帰国さ
れた翌年のことである。 また
弘仁3年(812)、大師は嵯峨天皇から官財を賜わり、勅旨を奉じて諸堂を造営された。 とか
天長年間(824〜833)に開かれたとする所伝は、この造営の完成を伝えるものと考えられる。 さらに左大臣藤原緒嗣の発願によって広大な寺域に伽藍の造営が図られた。 その造営は緒嗣なき後も続けられ、亡父緒嗣の菩提のための事業として、藤原春津に受け継がれ、斉衡2年(855)に果たされた。
と云うように諸説があります。
 西国33所の札所巡礼は大和長谷寺の徳道上人によって始められたと伝えられています。今日西国霊場の中興の祖と仰がれるのは、花山法皇(968〜1008)です。19歳のときに出家され、比叡山に上り、または書写山に性空上人を尋ね、熊野那智にもたびたび御幸されています。このように天台真言などの高僧や修験者らの間では修行の場を求めて、諸霊場を遍歴する人たちが多かったものと思われます。これらの人々によって西国の札所巡礼が益々盛んになりました。現存する最も古い西国巡礼の記録は、三井寺前大僧正行尊の『西国巡礼手中記』ですが、これによると現在の札所寺院名がそのまま挙げられています。札所番は時代により変わったこともありますが、現在の札所番は室町時代ごろに定まったとされています。
当山は西国霊場第15番の札所に列せられています。
古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心でありました。そして京都の今熊野の地にも熊野信仰と、その本地仏としての観音信仰が栄えました。白河法皇(1053−1129)のころには、すでにこの地は熊野修験の中心地であったことがわかっています。この京都の今熊野権現とその本地仏とに対する信仰は、九州の宇佐信仰の習合した山岳仏教、九州豊後の国の国東半島を中心とする一帯に平安後期からおこった今熊野権現とその本地仏を信仰する修験に大きな影響を及ぼしました。京都の今熊野は中世の九州方面の熊野信仰の本山格としての地位におかれていたのであります。
 東山七条の東の峰を阿弥陀が峰といい、その峰の南西一帯を鳥戸野(とりべの)と呼び、北西の一帯を鳥辺野(とりべの)と字を書きかえております。
また両方を合わせて鳥部野(とりべの)という字であらわします。今熊野という呼ばれる一帯、阿弥陀が峰の南西側鳥戸野の地は、古くから高貴な方々の葬地であり、いっぽうの鳥辺野は庶民の葬地でした。その鳥戸野の葬地を掌っていたのが観音寺であります。
当山の古くからの寺域には今も鳥戸野陵があります。そこには、長保2年(1000)に崩御された一条天皇の皇后・藤原定子が鎮まり、
そのほか多くの皇族方や、藤原道長(996〜1027)をはじめとした貴族方の火葬塚が同域となっていて、多くの方々の葬儀や法要が観音寺に於いて執り行われました。また文暦元年(1234)に後堀河上皇が御年23歳で崩御されると、当寺に観音寺陵を築き、観音堂が南面されているのに対し、北面して永く本尊を拝するように葬られました。
このように平安中期以来綿々として皇族方の葬送の場となり、鳥戸野の管掌寺院として皇室との御縁をつなぎ、いよいよ歴朝の崇敬を得て栄えました。
平安末期の永暦元年(1160)には、後白河上皇(1127〜1192)がこの地に熊野権現を勧請され、当山のご本尊をその本地仏として定められ、「新那智山」の山号を賜り、山麓に新熊野神社を造営されました。
古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心であり、歴代の上皇・法皇はたびたび熊野御幸を重ねられ、後白河上皇も御幸されること27度に及びました。しかし、都より遠く隔たった熊野の地への御幸は容易ではなく、また後白河上皇のころには世情も不安定であり、御幸を断念せざるを得なかったのでありましょう。そのためにも、古くから熊野権現出現の伝説地でもある今熊野の地を紀州熊野の観音霊場になぞらえて、社殿を山麓に造営され、また神社と寺を結ぶために、観音寺大路(現在の泉涌寺道とほぼ同じ)を通されました。そして熊野御幸のための御潔斎場としての御精進屋を観音堂ちかくの浄地に設けられ、ご精進中またはご参籠に際してはこの観音寺大路を往還されたのであります。遠隔の熊野の地への御幸も、国に大事があっては叶わず、しかしそのような時こそ、今熊野の地へ籠もられて、源平争乱の世に処して国のなりゆく様を案じられ、神仏に祈りをこめられたのでありましょう。後白河上皇は、嘉応元年(1169)に御出家あらせられました。
また、後白河上皇は御持病の頭痛を当山の観音さまの御夢告によって平癒されたので、爾来世の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになりました。その後、南北朝時代の兵火に見舞われましたが、北朝の朝廷や足利将軍の配慮によってすぐに復興されました。また応仁・文明の大乱でも伽藍は消失しましたが、その後復興されています。
 天正8年(1580)の日付で「造東山新熊野観音寺状」という勧進のための一巻が残されていますが、このときにかなりまとまった堂宇が現在の地域に建立されたと思われます。今の観音寺本堂の位置はかつての奥の院順礼堂にあたると伝えられていますが、このときに定まったものと推測されます。
江戸時代になると西国霊場巡拝が益々盛んになりました。正徳2年(1712)には、宗恕祖元律師によって現在の本堂が建立されています。
そして今なお多くの参詣者が集う霊験あらたかな聖域ととして、歴史と法灯を伝えています。

本堂           本尊 御前立ち
 現在の観音寺本堂の位置は、かつての奥の院順礼堂にあたると伝えられています。弘法大師が熊野権現とお出会いになられた、最も神聖なる場所にあたります。この建物は、正徳2年(1712)には、宗恕祖元律師によって建立されたもので、今なお多くの参詣者が集い、歴史と法灯を伝えています。
西国霊場の巡拝者にとっては、まずここに参拝して御納経(御朱印)を戴かれます。
 本尊は、弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩(身丈・1尺8寸)。
体内仏として熊野権現より授かった、天照大神の御作の十一面観世音菩薩(身丈・1寸8分)が祀られています。
 本尊は秘仏とされていて直接拝むことはできません。しかし代わりに同じお姿をされた御前立さまが立たれています。
脇仏は、智証大師円珍作と伝えられる不動明王と、運慶作と伝えられる毘沙門天です。そのほかこの本堂には、大聖歓喜天(聖天)、薬師如来、准胝観音、三面大黒天などのほか、京都七福神の祭祀として恵比須神をお祀りしています。
ここでは毎日早朝より、当山僧侶によってご祈祷などが厳修されています。

大師堂         内陣
 大師堂 当山を開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。不動明王、愛染明王、また当山の伽藍を寄進建立された左大臣藤原緒嗣の像もお祀りされています。ここでは普段、護摩の修法が行われ、また修行僧の修行道場として使用されることもあります。

ぼけ封じ観音
 大師堂の前に立たれる観音さまが、「ぼけ封じ観  
音」です。私たちをとりまく心や身体のぼけを取
り除いて下さる観音さまです。
毎日たくさんの人々が、お身代わりの石仏に願い 
事を込めて奉納されています。この石仏は、お申 
し込み戴くと先ず本堂にて御祈祷を厳修し、そしてぼけ封じ観音さまの台座のお近くに奉安されます。こうして観音さまは、私たちが明るく楽しく生きがいをもって、いつまでも元気に暮らせるよう、いつも見守って下さるのです。

熊野権現社
 当山の鎮守社として「稲荷社」とならんで鎮座されますのが、「熊野権現社」です。平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国されてほどなくの頃、山中の光明にひかれてこの地に来られ、そこで熊野権現と会われました。大師に1寸8分の観世音を授けられ、また永くこの地の守護神になると約されたと伝えられています。
今熊野観音寺の霊験について
平安時代末期のすぐれた為政者でもある後白河法皇は、熊野権現を信仰され、今熊野の地にも熊野権現を勧請され、当山のご本尊をその本地仏として定められ、深く信奉されました。
しかし源平争乱などの不安定な世情にあって、ご心痛の多かったことでありましょう。法皇は持病として、激しい頭痛がおありでした。そこで、頭痛封じの観音さまとして評判の高かった今熊野観音に頭痛平癒のご祈願を続けられたところ、ある日の夜に就寝中の法皇の枕元に観音様が現れ、病める頭に向けて光明をお差しかけ下さいました。すると永年苦しんでこられた頭痛が、不思議にもたちまちに癒えてしまいました。
爾来、法皇は今熊野観音を頭痛封じの観音としてさらに天下にお知らしめになり、益々篤く信仰されるようになりました。
その他たくさんの霊験記が伝わっていますが、頭の観音様とされ、また枕元に立たれたり夢にお姿を現されるとされています。今日でも不思議な霊験をお受けになる篤信の方々が多くおられ、頭痛封じ・智慧授かり・学業成就などの頭の観音さまとしてはもとより、厄除開運・健康長寿・中風封じ・ぼけ封じの観音さまとして信仰を集めています。 これらの事で今も多くの人々が参詣に来られる寺である。
泉涌寺の塔頭でもあり、その他の塔頭辞意にも御利益がある塔頭もあります。

五智の井
 弘法大師が当山を開かれるときに錫杖をもって岩根をうがたれて湧き出した水が五智水です。その五智水が井戸水として湧き出しているのが、この「五智の井」です。今日なお清涼なる清水がこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

神仏霊場 ご朱印

御本尊彩色御影

西国33所 御詠歌 ご朱印

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