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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 41番 泉涌寺

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真言宗泉涌寺派総本山で明治以前迄高貴な方の焼き場も兼ねていた。火葬意識が無かった時代でも火葬に臥したことの証明する寺院でもあった
京都府、楽土の道
(121)東山 
泉涌寺(せんにゅうじ)
住 所 〠 605―0977 京都市東山区泉涌寺山内町27
電話番号 電話 075―561―1551
本  尊 釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来
開 山 (伝)神修上人
創  建 (伝)斉衡3年(856)
アクセス 近鉄京都線 東福寺駅下車 徒歩10分
     京阪電車 東福寺駅下車 徒歩10分
<寺歴・縁起> H/P http://www.mitera.org/
真言宗泉涌寺派総本山 真言宗18本山8番 洛陽33観音20番(楊貴妃観音堂)
京都13仏6番 神仏霊場121番

 東山36峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。
 当寺は天長年間(824〜834)、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊芿が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
 大師は肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、滞在12年、顕密両乗の蘊奥(うんおう)を究めて帰国した。帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、当寺を律を基本に、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。
 したがって当時朝野の尊信篤く、後鳥羽、順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家、武家両面から深く帰依された。大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。その後、南北朝〜安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に
後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇、皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。
 総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。
 全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。
開山俊芿が泉涌寺堂塔伽藍建立の勧縁疏に後鳥羽上皇、後高倉院が賛同され資を寄せられたことは、泉涌寺と皇室の深い縁を感ずる出来事であった。俊芿示寂の後、応永18年(1411)10月には後小松天皇から「大興正法国師」の号が贈られ、享保11年(1726)2月には中御門天皇から「大円覚心照国師」の号を、さらに明治16年(1883)6月には明治天皇から「月輪大師」の号が贈られている。
 仁治3年(1242)1月、四条天皇が12才で崩御されると当山で御葬儀が行われ、御陵が開山大師御廟近くで営まれ、当山に天皇の御影や尊牌が奉安されて、皇室の御寺としての寺格が備えられた
 その後、応安7年(1374)1月、後光厳院をここで御火葬申してから以後九代の天皇の御火葬所となり、後水尾天皇から孝明天皇までの江戸時代の全ての天皇、皇妃の御陵もここに造営された。さらに明治維新の後は他山奉祀の歴代天皇、皇妃の菩提寺「御寺(みてら)」として尊崇されるようになる。
 このように、当山で御葬儀が行なわれ、御陵が営まれた天皇、皇妃の御念持仏、御遺品の数々が当寺へ御寄納になり、今日まで多く伝えされている。

総門               大門
 総門 江戸時代 東大路通りのバス停「泉涌寺道」で下車し、東えと続く道坂道をゆっくりと登ると総門にたどり着く。この門から境内であり、
木立に囲まれた道の両側に塔頭寺院が並ぶ。塔頭寺院が配されたのは創建後間もないころからであり、「古伽藍図」に描かれた当時の景観は基本的には変わっていない。 
大門 重文 桃山時代 月輪中学を右に見て丘陵を上りつめた所に大門がある。それより東に仏殿、舎利殿、本坊の建物が並び創建当時の直線的な堂宇の配置を偲ばせている。伝、長即之筆「東山」の額を掲げた堂々とした本瓦葺の四脚門で、慶長記(1596〜1615)造営の内裏門を移築したものである。蟇股には唐獅子、龍、獏などの霊獣が刻まれ、桃山時代の華やかな雰囲気が残されている。
仏殿
 重文 江戸時代(寛文8年)
 仏殿は禅宗様を代表する建築であり、寛文8年(1668)に皇室の援助の元4代将軍徳川家綱によっ 
て再建された。入母屋造り、正面5間、側面5間  
で、最大級の規模を持つ。身舎に裳階が付き、軒下には組物が並び、壁板に花頭窓を配す。柱はすべて欅の良材を用いた円柱で、石製の基盤の上に立ち、堂々とした美しい外観を見せる。内陣は4間×4間で奥壁の前に三世仏を祀る。外陣奥の左には三祖像を祀る祖師堂が、右には伽藍神を祀る土地堂が造られている。床は板石敷き。天井を張らず、屋根下まで高くせりあがって建物を見せ、迫力ある様式となっている。迫力ある様式となっている。

白衣観音図       三世仏
白衣観音図 江戸時代(寛文9年)縦410.0Cm 横476.5Cm 狩野探幽筆
仏殿内陣の三世佛の後ろ壁裏に大きな白衣観音像が描かれ三世仏を拝した人々を見送り、見守っている。仏殿の再建にあたって狩野探幽が筆を執ったものである。江戸より完成した絵が届き仏殿に張られたのが寛文9年であった。 
探幽晩年の作である。
 三世仏 鎌倉時代、江戸時代 木造 像高 釈迦仏(中央)89.0Cm
阿弥陀仏(左)87.4Cm 弥勒仏(右)87.4Cm
泉涌寺本尊。俊芿律師が記した「殿堂房寮色目」(1220)には「釈迦仏、過去仏丈六、弥陀仏、現在仏丈六、弥勒仏、未来丈六 三世求主」とあり、中国、南宋の寺院はすべて三世仏を安置していたという。本尊の思想的根拠は類例が少なく不明な点が多いが、律師が訪れた宋代の仏教界に求められよう。応仁の乱で破損したが仏牙舎利と共に「天龍密所」に仮安置された事が知られる。本像の制作年代には諸説あり、定説を見ないが寛文年間(1661〜1673)の再興造営に際して一部修補されたことが確認されている。
 
 舎利殿
江戸時代 京都府指定文化財
京都御所にあった御殿を寛永19年(1642)に移築したもので、寛文年間の再興の時、現位置に動かされた。桁行き5間、梁行き4間の身舎に1間の裳階を付ける。周囲に緑を廻らす。屋根は入母屋造り、本瓦葺、白壁に蔀戸のある和風御殿に花頭窓を付けて寺院風とする。堂内は床を拭き板敷きとし、身舎背面を板壁、その前の一角を区切って舎利庫としている。舎利庫の宝塔内に仏牙舎利が安置されている。

蟠龍図         羅漢図
蟠龍図 江戸時代(正保4年)舎利殿の天井にには蟠龍図が描かれている。隅部に「正保4年(1647)法橋狩野山雪」の銘が書かれている。
京狩野家2代目山雪の筆である。ひろく「鳴き龍」として知られている。
 羅漢図 江戸時代(寛文8年)内陣板壁に左右には、各8体づつの滝の流れる幽谷の地に集う16羅漢が描かれている。羅漢すなわち阿羅漢は悟りを開いた釈迦の高弟であり,木造の羅漢像に代わって画像の羅漢たちが舎利宝塔に近侍している。第6代木村了豚の筆。

舎利宝塔 韋駄天 月蓋長者      仏牙舎利、厨子
舎利殿内陣に安置してある舎利宝塔と仏牙舎利、厨子
舎利宝塔 鎌倉時代 高180.5Cm 月蓋長者、韋駄天 南宋時代
中央に仏牙(仏は)舎利を法案する舎利宝塔があり、月蓋長者(左)と韋駄天(右)が侍している。謡曲「舎利」は本殿が舞台で、速疾鬼が仏牙を奪い、韋駄天が奪い返すと云うもの。寛政5年(1464)仙洞御所において観世座の能楽で上演され、このような伝承が巷に広まって行ったことが推測される。仏牙舎利と韋駄天像は応仁の乱以前は善本院(舎利殿)2階に安置されていた。
 仏牙舎利、厨子 厨子 江戸時代 高50.0Cm
舎利殿本尊。安定2年(1228)9月8日、寺僧湛海によって、浙江省、西湖の南高峰麗にある白蓮寺より請来された。伝承によると仏牙は釈迦入滅時に分散され、一つが天神が護持したが、中国唐代の律僧、道宣の威徳に対して献上したという。道宣は南山律宗の開祖で、俊芿律師はその教義を中国で学び、それを基礎として泉涌寺を建立した。仏牙は泉涌寺が南山律の正統な寺院であることを日本の仏教界に宣言する為に将来された。やがて舎利会などを通して多くの人々と法縁を結び今日に至る。

霊明殿
明治時代(明治17年)
現在の霊明殿は、明治15年(1882)10月炎上の後、同17年明治天皇によって再建された尊牌殿で、入母屋造り桧皮葺き、外観は宸殿風の建物である。
すべて尾州桧材で造られ、殿内西廂は板間。殿内は内陣、中陣、外陣に分かれ、内陣は五室の宮殿造りである。それぞれに御扉を設け、中央御扉内には四条天皇御尊像(木像)と御尊牌をはじめ、明治天皇、昭憲皇太后、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、香淳皇后の御真影、御尊牌が奉安され、それ以前の天皇、皇妃、親王方の御尊牌は左右の御扉内に奉安されている。内部の荘厳具は、明治天皇以後の皇族方から御寄進されたもので、今も毎日御回向が行われている。
 霊明扁額
 霊明殿入り口正面に掲げられた扁額は第111代 
後西天皇の宸翰をもとに木彫し金泥で飾ったも 
のである。雲が渦巻くような雄渾な書体が霊殿
に相応しい。天皇は後水尾天皇の第7皇子。和 
歌や連歌に優れ、文芸面にも事跡を残されまし 
た。
 




御座所 車寄せ
 明治時代(明治17年)
 明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失した。
 明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿をお移しになった。この建物は文化15年(1818)に造営されたものである。
 御殿は西に御車寄があり、これに続く一棟は6室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼んでいる。現在も両陛下はじめ皇族方の御領参拝の際、御休憩所として使われている。その時には勅使門が開けられ檜皮葺で唐破風を菊の後紋章の飾り板で飾った玄関よりは入って頂く事になっています。

御座所 玉座の間
御殿 江戸時代(文化15年)
 明治15年(1882)の本坊の焼失後、明治天皇の御裁可によって同17年には再建がなされた。とりわけ京都御所にあった皇后の御里御殿が下陽された。御殿は文化15年(1818)に造営されたもので、襖絵を含め、侍従の間、勅使の間などが御殿そのままに移築復元され、雅な宮廷を実感できる。鳳凰の舞う瑞鳥弁花図で飾られた玉座の間にはかって天皇が臨席した御茵が置かれている。


海会堂内部
 海会堂は京都御所内の御黒戸を移築したもので、。歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られている。方形土蔵造り塗り込めの御堂で、外面は白壁塗り、床も高く御屋根は宝形造り御厨子入りの御仏体は大小様々であるが、各時代の代表的仏師が心をこめて彫像しただけあって、いずれも素晴らし御像である。俊芿律師坐像もこの仏間にあります。

楊貴妃観音堂
 大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに請来された像である。
 像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た。宝相華唐草透かし彫りの宝冠、手にも宝相華を持ち、彩色が多く、生けるが如くに端坐する御姿は、その名にふさわしい御像である。

内陣
 楊貴妃観音堂は、現在楊貴妃観音坐像を中心に左右に16羅漢を像6軀と
僧形像1軀を安置する。応仁の乱以後に新造された堂宇の1つで、一説には織田信長の再建(1576)の古材で寛文年間(1661〜1673)に建立したと伝える。
現在、入り口上部に楊貴妃の扁額があるが、江戸時代中期までは扁額「保陀海山円通宝閣」があった。観音像、扁額は鎌倉時代、法堂の2階にあったが応仁の乱で法堂が焼失するとともに、観音堂の再建まで借り堂に安置されていた。
16羅漢坐像 鎌倉〜江戸時代 木造 像高120Cm前後
「泉涌寺諷誦類」に応永7年(1400)元日に16羅漢を山門繁栄と寺院安泰を願う事が記され、応仁の乱以前は山門2階に安置されていたと推測される。現存6軀のうち左右に1軀ずつ像容が異なる像があり、この2軀が応仁の乱以前からの像の可能性が高い。他4軀は江戸時代の頃と推測される。泉涌寺の羅漢信仰は中国天台教学として理解され、施餓鬼、羅漢供などの法要で重要な位置を占めていた。

楊貴妃観音坐像
重文 南宋時代 木造 像高114.8Cm 
 大型の宝冠や宝華、練りもので作られた頭髪は特徴的である。華美な装飾や精緻な截金模様、以降封の面長な顔達など女性的な容姿が想起されるところから近世初期より楊貴妃観音として信仰されている。寺僧、湛海によって歓喜2年<1230)6月に将来され、当初は楊柳観音として扁額「補陀海山円通宝閣」を掲げた法堂2階に月蓋長者、善財童子を脇侍として安置されていた。
これは中国、浙江省の東海上にある普陀山の海難救助の観音信仰が反映しており、泉涌寺僧の渡宋を守護する意図があった。やがて直接的な中国との交流が途絶えるとともにその役割を終え楊貴妃観音信仰へと展開していった。

俊芿律師像

神仏霊場 ご朱印

                            十一面千手観音

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