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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 40番 智積院

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真言宗智山派の総本山です。京阪七条駅を降り東山の方に歩くと突き当りに有る寺院です。近畿36不動尊の札所でもあります
京都府、楽土の道
(120)五百佛山 
智積院(ちちゃくいん)
住 所 〠 605―0951 京都市東山区東大路七条下る東瓦町964
電話番号 電話 075―541―5361
本  尊 金剛界大日如来
開 山 玄宥僧正
創  建 慶長3年(1598)
アクセス 京阪電車七条駅下車徒歩10分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.chisan.or.jp/sohonzan/
真言宗智山派総本山 真言宗18本山7番 近畿36不動尊20番
京都13仏霊場1番 神仏霊場120番

 真言宗の宗祖である弘法大師空海が高野山で入定されたのは、
承和2年(835)3月21日でした。それからおよそ260年たって、興教大師、覚鑁が高野山に大伝法院を建て、荒廃した高野山の復興と真言宗の教学の振興におおいに活躍されました。それゆえに興教大師は「中興の祖」とあおがれています。
その後、保延6年(1140)に、修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の根来山へと移し、ここを真言宗の根本道場としました。
 新たな道場建設の槌音の響く中、2年後の康治2年(1143)12月12日、
興教大師、覚鑁は、多くの弟子が見守る中、49才の生涯を閉じられました。
鎌倉時代の中頃に、頼瑜(らいゆ)僧正が出て、高野山から大伝法院を根来山へ移しました。
 これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになります。
智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。
しかし、同時に、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を洛北にしるしました。
 そして慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、
玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が夭折した棄丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。
再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出しました。
しかし、幕末から明治維新になると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく=明治政府によっておこなわれた仏教廃止運動)の波を受け、困難な時代をむかえます。
明治2年(1869)には、土佐藩の陣所となっていた教学研鑚の根本道場の勧学院が爆発炎上、明治15年(1882)には一山の象徴である金堂を焼失してしまいます。こうして困難な時代を経て、やがて明治33年(1900)に智積院を中心に活動していた全国の約3000の寺院が結集し、智積院を総本山と定めました。
終戦後の世相の混乱をのりこえ、徐々にその拡充整備がなされました。昭和41年(1966)には智山派全檀信徒のご浄財を得て、宿泊施設として智積院会館が建設されます。
 昭和50年(1975)には、宗祖弘法大師ご誕生1200年の記念事業として新金堂を建立し、本尊大日如来の尊像も造顕され、焼失以来の宗団の悲願を達成しました。そして、平成7年(1995)には興教大師850年御遠忌記念事業として、講堂(方丈殿)が再建されました。
 こうして伝統ある智積院は、いまや真言宗の教えのよりどころとして老若男女を問わず多くの信仰を集め、日々参拝者が絶えません。

総門
 東福門院(御所)より移築したと伝えられる総門。七条通りに突き当たりに西面して建っており、七条通りが西に向かって真っすぐ伸びている。現在では能化の深山晋山式のみ開門される。石柱は玄宥僧正の300回御遠忌の記念に明治37年(1904)に立てられた。

金堂        本尊 大日如来坐像
 金堂 昭和時代(昭和50年)もとの金堂は、江戸時代の宝永2年(1705)春に建築されたが、明治15年(1882)の放火による火災で焼失。現金堂は宗祖弘法大師生誕1200年記念事業として昭和50年(1975)に再建されたもの。
 本尊 大日如来坐像 昭和の再建と同時に造立。木造 像高197.8Cm
西村公朝元東京芸術大学教授の指揮のもと、美術院の仏師たちにより造顕された。藤原時代の彫刻様式を模して造立された。焼失前の本尊は恵心僧都制作の像と伝えられ誠に残念である。

明王殿(不動堂)     麦搗不動尊
 明王殿 不動明王を祀っていることから不動堂とも呼ばれているお堂で、もとは京都、四条寺町にあった浄土宗の名刹大雲院の本堂であった。本尊の不動明王は興教大師覚版鑁の作と伝えられ麦搗不動とも称す。お不動様は元紀州根来寺付近の辻堂に安置されてたといい、忙しいお百姓さんに代わって麦搗きをしたとの伝承からそう呼ばれる。
近畿36不動尊霊場20番札所、京都13仏巡礼1番札所として、巡礼者が多く御詣りされるお堂であります。

講堂       阿弥陀如来坐像
 講堂 智積院第3世日誉は、徳川家康公より豊臣秀吉が創建した祥雲寺を拝領し、その客殿を智積院の方丈として使用したが天和2年(1682)焼失、幕府より東福門院の宮殿を拝領して、移築したがこれも昭和22年(1947)に焼失した。現在の講堂は平成4年(1992)興教大師覚鑁850年後遠忌記念事業として計画され、平成7年(1995)10月に完成。その時から方丈改め講堂と名を変えた。桃山様式を踏まえて設計された総檜造りで、灌頂道場や各種研修の道場として使用さている。
 阿弥陀如来坐像 平安時代 木造 像高65.8Cm 西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来の坐像。等身より一回り小さい像であるがややぽっちゃりした体つきで、表情は穏やかなものになっている。平安時代後期と云うが残念ながら両手先が後補であることからもともと阿弥陀如来であったかどうかは不明。講堂の本尊として祀る。

大師堂         宗祖 弘法大師
 大師堂 江戸時代(寛政元年) 京都府指定文化財 石畳の奥にあって厳かな雰囲気を醸し出しているお堂で、寛政元年(1789)、第24世能化である胎通僧正の時に落成したものである。宗祖、弘法大師坐像を安置するところから大師堂と呼ばれている。その正面には京都、大通じの学僧として知られる南谷こと、照什が筆を執った「遍照金剛」の額が掲げられている。
 弘法大師坐像 江戸時代 木造 像高100Cm
 江戸、愛宕の心服寺大26世順がが智積院に在山中、京仏師、清水隆敬に東寺、御影堂の弘法大師像を模刻させたものであるといい、制作時期は大師堂建立よりわずかにさかのぼる。大師像の開扉は50年に1度である。

密厳堂         興教大師坐像
 密厳堂 江戸時代(寛文7年)京都府指定文化財 真言宗中興の祖、新義真言宗の開祖とされる興教大師覚鑁尊像を安置しているお堂。

神仏霊場 ご朱印

近畿36不動尊 ご朱印

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