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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 38番 六波羅蜜寺

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市バスの停留所から鴨川に下ると街並みが並んでいる、小学校かな!と思わせるような通りに面した所にお線香の煙が・・そんな所に有る小さ目なお寺ですが
京都府、楽土の道
(118)補陀洛山 
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
住 所 〠 605―0813 京都市東山区五条通大和大路上東入2丁目轆轤町
電話番号 電話 075―561―6980
本  尊 十一面観世音菩薩
開 山 空也上人
創  建 天暦5年(951)
アクセス 京阪電車 五条駅下車徒歩7分
     阪急四条河原町下車徒歩18分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.rokuhara.or.jp/
真言宗智山派(総本山 智積院)西国33所17番 洛陽33所観音霊場15番
通称寺の会 都七福神(弁財天)神仏霊場118番

 六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第2皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。
 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。
 上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。
 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。
 現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。
 なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。
重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。
 第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(946)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の照合を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。
 上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。定盛は上人の遺風を伝えて茶筌を作り、これを世に広め、子孫は有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて市中を徘徊した。これが今六斎念仏として伝わっている。当山の空也踊躍念仏はさらにその源流である。
 六波羅蜜とは
 この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための6つの修行をいいます。
波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることです。
布施 見返りを求めない応分の施しをさせていただく事をいいます。貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことです。布施行は物質だけではありません。
 持戒 道徳・法律等は人が作り現在はますます複雑になっています。私たちは高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒める事が肝要です。
 忍辱 如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかり、全ての人の心を我が心とする仏様の慈悲に通じることとなります。
 精進 不断の努力をいいます。我々人の生命は限りがあります。ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことです。
 禅定 冷静に第三者の立場で自分自身を見直すことです。
 知恵 我々は本来仏様の智慧を頂戴してこの世に生をうけております。
しかし、貪りや怒り愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちです。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を実践しどちらにもかたよらない中道を歩み、此の岸から彼に岸へ・・・。
江戸時代までは大伽藍を連ねたが、明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小した。現在、寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭く、主な建物は本堂(南北朝時代、重文)と弁財天堂、宝物収蔵庫のみである。

空也上人立像        平清盛坐像
平安時代、街を歩いて念仏を弘めた空也上人が天暦5年(951)に開いた西光寺は、貞元2年(977)天台別院となり六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)と改称しました。周囲は鳥辺野(とりべの)という葬送の地でしたが、平安時代後期には
平忠盛が、六波羅蜜寺の塔頭に軍勢を持ち、平清盛・平重盛など、広大な境域内に5200余りの平家一門の邸館が栄えた。
文禄4年(1595)安土桃山時代後期に天台宗より真言宗に改宗し、智積院の末寺となり、現在まで続いている。
六波羅蜜寺と云えば、空也上人立像と平清盛坐像で代表される西国33所巡礼札所である寺である。
 空也上人立像 重文 鎌倉時代 木造 像高117.6Cm 街中を行脚し、広く庶民に対して念仏を説いた。「市聖」と人々から慕われた。
腹前に鉦鼓を下げ、右手に撞木、左手に鹿杖を持し、草鞋を付け、行脚する一瞬の姿をとらえる。像内に「僧康勝」とあり、仏師運慶の4男で康勝の作と判明する。
 平清盛坐像 重文 鎌倉時代 木造 像高82.7Cm 僧形の坐像で像主は平清盛と伝えられる。胸前にて経巻を開くが、目は経巻から離れ、その上方を睨むかのように見える。迫力ある表情、動きのある衣の表現など、優れた慶派仏師の作と推される。制作年代は鎌倉時代前期、清盛没後の遺像になる。

地蔵菩薩立像 全体と部分
重文 平安時代 木造 像高151.8Cm
 円満な顔の表情に、自然な抑揚のプロポーション。さらにその胴体にさざ波のように薄く掛る衣の表現など、温雅かつ優美な像である。「今昔物語」に見える、但馬前司挙が地獄で助けられた地蔵菩薩に報いる為に大仏師定朝に語って像造し、六波羅蜜寺に安置した像と考えられる。又、通常の寺蔵菩薩像とは異なり、左手には頭髪を持ち「鬘掛け地蔵としても信仰を集めている。

通称 夢見地蔵(地蔵菩薩坐像)
重文 鎌倉時代 木造 像高89.7Cm
 張りのある端正な容貌、堂々とした体軀、流動感のある衣の表現は、静岡県、願成就院にある阿弥陀如来坐像など、12世紀末の運慶の作風と大いに共通点がある。表面は白土地に彩色を施し、肉身は白、衣部は色彩の上に截金で文様を現す。

運慶坐像          湛慶坐像
運慶坐像 運慶は、東大寺、金剛力士像、興福寺、無箸及び世親像などの作者であり、写実主義にもとずく鎌倉時代彫刻の代表作を作った慶仏派の第一人者である。運慶像は幾分おとなしい衣文の表現などから見れば、運慶没後の時代に制作されたと考えられるものの、意志的な眼の表情や、引き締まった口元の力強さなど、優れた写実表現は作者の技量の高さを示している。
 湛慶坐像 運慶の男子はみな仏師となったが、湛慶はその長男であり、82歳の時に完成した京都、三十三間堂の本尊千手観音坐像はじめ、数多くの作品を残した。作風は、父運慶に比べ穏健と評価され、本湛慶像も湛慶自作とも伝える。運慶像と同様に腹前に数珠を持ち、端座する姿にあらわされるが、同像に比べると幾分若く見え、口を固く結び一点を見据えるような、力強い意志的な風貌が巧みにあらわされる。運慶像と共に、運慶が一門の菩提寺として建立した地蔵十輪院に祀られていたものと云う。

司命像     閻魔大王坐像      司録像
 閻魔大王坐像 重文 鎌倉時代 木造 像高89.2Cm
閻魔大王は、地獄で亡者をさばく十王の一人。鎌倉時代以降に盛んになった十王信仰を背景に、閻魔大王の彫像も数多く制作された。本像は中国の道服を着け、右手には杓を持つ一般的な閻魔大王の姿にあらわされる。目を斜め上に極端に釣り上げ、口を大きく横に開き、憤怒の形相。松原通を隔てた閻魔堂に安置されていた。
 司命像(左)司録像(右) 江戸時代 木造 像高37.0Cm
司命、司録は閻魔大王の十社で閻魔大王の両脇に侍す。共に道服を着け、虎皮の上に片足を組み上げる。司命は右手に筆、左手に巻物を持つ姿に、司録は両手に持つ巻物を読み上げる姿にあらわされる。造形に違いがみられ、司命は閻魔大王像と同時代と考えられるが、司録像は後年の補作である。

弘法大師坐像
重文 鎌倉時代 木造 像高69.7Cm
 右手に五鈷杵、左手に数珠を執り、椅子に坐す。「真如親王さま」と呼ばれる、弘法大師像では最も一般的な姿にあらわされる。像内に「巧匠定阿弥陀仏長快」との墨書銘があり、快慶の弟子である長快の作と分かる。繊細な趣を示す本像は、13世紀半ばころの制作とみられ、東寺の御影堂(天福元年、1233)康勝作に次ぐ、弘法大師彫像の故例である。

本堂に懸かる扁額

薬師如来坐像       吉祥天立像
 薬師如来坐像 重文 平安時代 木造 像高163.7Cm 
空也上人の弟子である中心が、当寺を天台宗とした際に本尊としたと伝えられる。伏し目がちで三日月型の細い眼、地髪と肉髻との境が不明瞭な頭の形状などに特徴がある。力強さから穏やかさえと移行する、10世紀半ばころの制作と考えられる。
 吉祥天立像 重文 鎌倉時代 木造 像高101.8Cm
吉祥とは繁栄、幸運を意味し、吉祥天は、幸福、美、富をあらわす神とされ、古代インドから崇敬されてきた。仏法を守護する天部として仏教にも早くから取り込まれた。本像は、腰をややひねり、左手に宝珠を乗せ、右手は下げる。穏やかで優しい女性的な顔は豊かにふくらみ、身にまとう衣もゆったりとする中で、裳の衣文は上下に明快に流れて対比をなしている。

萬燈会で開扉され、お出ましになられた本尊(秘仏)

神仏霊場 ご朱印

胎蔵界曼荼羅

                 西国33所 御詠歌 ご朱印

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