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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 28番 竹之内門跡曼殊院

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天台宗の門跡寺院で元近畿36不動尊17番札所であった寺院です
京都府、楽土の道
(108)竹之内門跡
曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)
住 所 〠 606―8134 京都市左京区一乗寺竹之内町42
電話番号 電話 075-781-5010
本  尊 阿弥陀如来
開 山 是算国師
創  建 天歴年間(947〜957)
アクセス JR京都駅下車市バス一乗寺清水町下車徒歩20分
     地下鉄国際会館下車市バス一乗寺清水町下車徒歩20分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.manshuinmonzeki.jp/index.html
天台宗門跡寺院 近畿36不動尊17番 神仏霊場108番

 曼殊院は、もとは比叡山に最澄が開いた東尾坊が始まり。天暦元年(947)、住持の是算(ぜさん)国師が菅原氏の出であったことから、曼殊院の門主は代々、北野天満宮の別当を兼務 。明治の初めまで続いていた。
天仁年間(1108〜1110・平安後期)に名称が曼殊院と改められた。このあと、比叡山から御所の北側へ移り、文明年間(1469〜1487)から法親王を門主とする門跡(皇族・貴族などが出家して住持する特定の寺格の寺)寺院となり竹内門跡と称した。そして、良尚(りょうしょう)法親王が門主となった明暦2年(1656)に現在の地に移転された。良尚法親王は、桂離宮を造らせた八条宮智仁(としひと)親王の第2子であったことで、曼殊院の造営に当たっては、庭園・建物ともに桂離宮の様式が採りいれられている。
 庫裡から大玄関へ入ると、狩野永徳筆の襖画のある虎の間、岸駒(がんく)筆の襖絵のある孔雀の間、そして竹の間。長い廊下を進むと江戸時代初期の建築・大書院となり、各部屋の狩野探幽筆の障壁画や、仏間。大書院の前の庭園は枯山水。白砂や石を組み合わせた鶴島と亀島とがある。
 続いて、小書院でここも狩野探幽筆の障壁画がみられる。見所の多い寺院である。
曼朱印門跡は洛北屈指の名刹である。門跡と云うのは皇族・貴族などが出家して住持する特定の寺格の寺をいい、勅使門の両側の壁に残る5本の白線はその格式を今に伝える。
曼主院はもともと天暦年間(947〜957)伝教大師の草創に始まり、比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。天歴元年(947)曼殊院の住持、是算国師は菅原家の出であったので北野天満宮の別当職に補され、以後れきだい、明治の初めまでこれを兼務した。天仁年間(1108〜1110・平安時代後期)学僧、忠尋座主が寺号を曼殊院と改め又北山に別院を建立した。北山にあった曼殊院は、
足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、康暦年間(1379-1381)、洛中に移転する。移転先は相国寺の南方、現在の京都市上京区京都御苑内に相当する。
明応4年(1495)頃、伏見宮貞常親王の息で後土御門天皇の猶子である大僧正慈運法親王が26世門主として入寺して以降、曼殊院は代々皇族が門主を務めることが慣例となり、宮門跡としての地位が確立した。
曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称である)。曼殊院の現在地への移転は明暦2年(1656)のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。この地は曼殊院と同じく比叡山の小坊の1つで慶滋保胤らによって勧学会が開かれたものの後に廃絶した月林寺の跡地であったと言われている。

勅使門
 江戸時代造立、曼殊院の正門で15段の上に西面にして立ち、本柱の後方に控柱がある薬医門形式の門である。細部に絵様彫刻を表し他の諸殿舎と同じ明暦2年(1656)頃の造営である。左右の塀には白線が5本入っており門跡寺院の証を示している。

庫裡入口         上之台所
  庫裡 重文 江戸時代 拝観受付を入った正面にある。庫裡とは寺院の台所の事で、北向きに建つ唐破風の入り口には、第29代門主良尚法親王筆による
「媚竈」(びそう)の額が掲げられる。

唐門
 江戸時代 大玄関の西側に、北に面して建っている。唐破風を正面にむけた向唐門で、扉正面に松、背面に菊柱頭や大瓶束に見る牡丹などの装飾彫刻が江戸時代初期の様式を示している。

大玄関
 重文 江戸時代 勅使門をくぐり、広い苔庭を隔てた向こうにある。
前に車寄せ、式台(上がり口)を持ち、屋根には軒唐破風をつけ「先入関」
(良尚法親王筆)の横額を掲げる。土間は六角の敷き瓦を敷いている。内部には「虎の間」「竹の間」等がある。

虎の間             孔雀の間
 虎の間 虎の間の襖絵は狩野派一門のそれも永徳の筆である。虎の胴が長く描かれているのはその当時我が国の絵画の中に描かれた事がなかったのでおそらく想像の絵であろう。
 孔雀の間 孔雀の間の襖絵は岸駒が描いたもので、南画風で純粋の日本画である。仔の孔雀と、親とのバランスがとてもよくとれているのが微笑ましい。
人間の一生を孔雀の姿で表現したものである。この孔雀の間に善光寺如来を祀ってあります。

大書院         手前が滝の間、奥十雪の間
 重文 江戸時代(明暦2年)桁行7間 梁間5間、一重寄棟造りの住宅風建築で、屋根は杮葺、南から東に広い縁が折矩に廻り、低い高欄を設け、内部は南側に「滝の間」「十雪の間」滝の間の奥に「控えの間」十雪の間の奥に「仏間」が配置されている。現在は曼殊院の本堂であるが昭和の半解体修理(昭和36〜37・1961〜1962)の際「明暦2年(1656)大書院」の墨書きが発見され、もともと書院として建てられた事がわかる。


十雪間の棚
 十雪間の左床には上に天袋、左下に地袋、下右には火灯窓を持つ棚が設けられる。天袋、下袋の襖は周囲が金襴等で飾られ花鳥画が描かれている。 

仏間と諸仏
 重文 江戸時代(明暦2年) 十雪の間の正面奥にある。もともとこの室は上段の間であったが、明治初年の寝殿とりこわしの際、仏像その他を現在のこの室に移した。この室には北野天満宮から移されたという十一面観音菩薩(中央厨子内左・平安時代後期)や薬師如来像(厨子右・室町時代)、本尊、阿弥陀如来立像(厨子中央・鎌倉時代)等の諸仏と歴代門主の位牌が安置されています。

小書院
 小書院 重文 江戸時代(明暦2年) 桁行6間 梁間5間の寄棟造りで
「黄昏の間」(7畳)を最高の室とし、その前室に「富士の間」(8畳)が続く。
西側には茶室「夢想の関」(一畳台目)がある。

小書院 黄昏の間          欄間
 黄昏の間 二畳式の上段はその右に火灯窓を持つ付書院とその左に約10種の寄木で作られた「曼殊院棚」があり、桂離宮新御殿の「桂棚」等と共に名作として知られる。中央上と右下に物入れを取り、両脇に三段の棚という構成で棚板の高さも形も違っている。襖絵は狩野探幽筆と伝わる。
 欄間 2室の間仕切りの上には格子に菊花を散らした欄間がある。浮き彫りと透かし彫りとで表菊、裏菊などを表現し、漆により紅白の色付けをしている。

黄不動
国宝 平安時代 紙本著色 縦168.2Cm 横80.3Cm
 その体の黄色いところから黄不動と呼ばれ、青蓮院の青不動、高野山、明王院の赤不動と共に三大不動と呼ばれている。頭髪は右旋して螺をなす巻き毛で両目を見開き、口の両端に牙を上方に向けて出す。上半身裸身で条帛はなく、筋骨たくましい青年の身体像で、足下の岩座に立つ。承和5年(838)智証大師圓珍の金色不動感得の伝説にちなむ作品で、滋賀県、園城寺三井寺に現存する秘仏を模写したものと云われる。
現曼殊院の黄不動は複製品で現物は博物館に寄託されている。


神仏霊場 ご朱印

慈恵大師像

                   近畿36不動尊 ご朱印

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