ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 19番 相国寺

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
正式名称は相国承天禅寺と云う難しい名前ですが臨済宗相国寺派大本山 京都五山2位の寺院であります
京都府、楽土の道
(99)萬年山
相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)
住 所 〠 602―0898 京都市上京区今出川通烏丸東入
電話番号 電話 075―231―0301
本  尊 釈迦如来
開 山 足利義満、夢窓疎石(開山)中興 西笑承兌
創  建 永徳2年(1382)
アクセス 地下鉄「今出川」、市バス「同志社前」下車徒歩5分
<寺歴・縁起> H/P ありません
臨済宗相国寺派大本山 京都五山2位
神仏霊場 巡拝の道 第99番

 相国寺で通る寺院であります。
京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接する
 最盛期の寺域は、東は寺町通、西は大宮通、南は一条通、北は上御霊神社との境までの広さがあった。応仁の乱や天明の大火により、三門と仏殿が焼失し、再建されることがなかった。かつては、勅使門−天界橋−三門−仏殿−法堂−唐門−方丈と一直線に並び、方丈の東側に庫裏が続いて建つ、禅宗様式の伽藍配置がされていた。
 相国寺(しょうこくじ)は正式名称を萬年山相国承天禅寺と称し、足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命をうけ、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成した一大禅苑で、夢窓国師を勧請開山とし、五山の上位に列せられる夢窓派の中心禅林であった。その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが度重なる災禍にもかかわらず当山は禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の法堂を建立し、慶長14年には徳川家康も三門を寄進した。また後水尾天皇は皇子穏仁親王追善の為、宮殿を下賜して開山塔とした。他の堂塔も再建したが天明8年(1788)の大火で法堂・浴室・塔頭9院のほかは焼失。文化4年(1807)に至って、桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けて開山塔として建立され、方丈・庫裏も完備されて漸く壮大な旧観を復するに至った。現在は金閣・銀閣両寺をはじめ九十余カ寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。
南北朝時代
 1382年、弘和2年/永徳2年
 室町幕府3代将軍 足利義満は、「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願する。足利義満は、禅の師であった天龍寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に開山となることを要請したが断られ、開山を春屋妙葩の伯父であり師でもある高僧 夢窓疎石(むそうそせき)とし、春屋妙葩は、第2世住持となることで引き受ける
 夢窓疎石は、死去して40年以上経った後に、相国寺の勧請開山となった
1388年、元中5年/嘉慶2年 春屋妙葩も相国寺の伽藍の完成を見ずに死去する。
1392年、元中9年/明徳3年 相国寺の伽藍が竣工
 京都最大の禅宗寺院の一つとして、五山文学の中心地として栄える
1394年、応永元年 伽藍完成からわずか2年後に早くも全焼してしまう
1396年、応永3年 ほとんどの伽藍が再建される
1425年、応永32年にも全焼
1467年、応仁元年 相国寺が、応仁の乱の細川勝元の陣地となったことで焼失する
1551年、天文20年 管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失する
1584年、天正12年 相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興が進められる
1788年、天明8年 「天明の大火」で法堂以外のほとんどの建物が焼失する
文化年間(1804〜1818) 現存する伽藍のほとんどが、この間に再建されたもの

法堂
 初建は明徳2年(1391)であるが、以降4度の火災に見舞われ現在の建物は慶長10年(1604)豊臣秀頼の寄進により再建された。禅宗仕様の法堂建築としては最大にして最古を誇る。無畏堂とも称し、本来畏れる事無く法を説く講堂的役割を果たしている。仏殿鳴き後、仏殿の金本堂を安置する事から本堂とも呼ばれる。桁行5間、梁間4間、高さ22m単層切り妻造りで本瓦葺の玄関廊下が付いている。

法堂内陣、須弥壇と天井画
 法堂内部には正面と左右に階段がついた須弥壇があり、壇上中央に本尊釈迦如来坐像、向かって右に迦葉尊者像、左に阿難尊者像が安置される。外観は二階建てに見えるが、一回の屋根に見えるのは裳階で、単層の建物である。床は禅宗様の特色である四半敷の土間で漆喰で白線が引かれている。この白線は儀式や法会で行導される時の道を定めている。天井には桃山時代の絵師、狩野光信による蟠龍図描かれている。直径約9m、堂内中央付近で手を叩くと音が反響することから、鳴き龍とも称される。龍は仏法を守る龍神であり、水をつかさどる神でもある。火事から護ると云う意味から、禅宗の法堂の天井には龍が良く描かれている。絵師狩野光信最後の制作である。

釈迦如来坐像
鎌倉時代 木造 像高110.0Cm
 鎌倉時代を代表する仏師、運慶の作と伝わる。蓮華座状に結跏趺坐し、
腹前で両手を合わせて定印を結ぶ。仏像の構造や衣のひだの表現に平安時代以来活躍した院派仏師の特徴がみられる。光背には、鮮やかな彩色が施された天人や人頭鳥身の迦陵頻伽が配される。

開山塔(開山堂)
 開山夢想国師像を安置する為、開山塔(開山堂)と呼ばれる。法堂の東に位置し境内で最も大切な場所である。開山塔の庭は歯草が引きつめられた真の庭に石を、奥に奇岩を配し樹木が植えられている。本来表と裏の二つに分かれている禅宗の庭が一つになった稀有な例である。創建当時、上賀茂から水を引き、丁度この庭を通して御所に流して御用水としていた為変則的な造りになったという。正面5間、側面4間の建物で南向きに建つ。創建当時は資寿院と号した。
現在の建物は文化4年(1807)桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を移し、仏堂に改修したもの。内部には丸山応挙の襖絵がある。

開山塔内部
 三方に畳が敷かれ、中央には後水尾天皇筆の「圓明」の額が掲げられる。
西の壇には仏光国師、仏国国師、普明国師、足利義満の各像を安置する。

夢想国師坐像
木造 像高120.0Cm 室町時代
 夢想国師は痩身で、その肩は「夢想肩」と呼ばれるほどの細いなで肩であったという。この木像はそうした国師の特徴をよくとらえている。特に顔がつややかで生き生きとして見えるのは開山塔の侍真僧が毎朝「般若心経」を唱えながら浄布で顔を拭っている為である。曲彔に法被を掛けた上に像を安置する。

方丈南面
正面約25.5m 側面約16m 東西に唐破風屋根の玄関がつく。現在の建物は文化4年(1807)の再建、内部は前後それぞれ3室に分けた計6室からなり、各室は襖で仕切られる。襖には江戸後期の絵師、原在中による補陀洛図、群仙図、琴棋書画図等が描かれている。


方丈内陣
 南側に3室と北側に3室の6間取りで、合わせて168畳ある。南側の表方丈は壇信徒の法要、坐禅会などの公的行事に使われる。竿縁天井に竹の節欄間で3室通して広々と使えるようになっている。北の3室は、鴨居上を2段の小壁として欄間を設けていないので、各室それぞれ独立して使えるように造られている。正面には遠塵斎による観音菩薩画像が掲げられる。仏の顔、体、衣の輪郭すべてが経文の微細な文字で書かれている珍しい画像である。

神仏霊場 ご朱印         庫裏
           寺務所や寺の購買は全てここで行う

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング