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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 17番 宝鏡寺

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臨済宗尼五山の一つで門跡寺院です。人形の寺でも有名ですよ
京都府、楽土の道
(97)西山 
寶鏡寺門跡(ほうきょうじもんぜき)
住 所 〠 602―0072 京都市上京区寺之内通堀川東入百々町547
電話番号 電話 075―451―1550
本  尊 聖観世音菩薩
開 山 華林宮惠厳
創  建 応安年間(1368〜1375)
アクセス JR京都駅 市バス京都市バス「堀川寺之内」下車すぐ
京都市営地下鉄「今出川」・「鞍馬口」徒歩15分
<寺歴・縁起> H/P http://www.hokyoji.net/mein.htm
臨済宗 尼五山第一位 神仏霊場 巡拝の道 第97番

 中世京洛に栄えていました尼五山第一位の景愛寺の法灯を今に受け継ぐ宝鏡寺です。
景愛寺第6世でありました光厳天皇(こうごんてんのう)皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼は、宝鏡寺を開山し後光厳天皇より宝鏡寺の号を賜っております。その後多くの皇女が歴代となり、百々御所(どどのごしょ)という御所号も賜りました。人形の寺とも呼ばれ、毎年春と秋に一般公開もしております。
 宝鏡寺は、西山(せいざん)と号し、百々御所(どどのごしょ)という御所号をもっている臨済宗単立の尼門跡寺院です。
本尊は聖観世音菩薩で、伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられ、膝の上に小さな円鏡を持っている大変珍しいお姿をしております。
開山は景愛寺(けいあいじ)第6世であった光厳天皇皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼であり、応安年間(1368〜1375)に御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を景愛寺の支院であった建福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山したのが始まりです。
 景愛寺は弘安年間(1278〜1287)に無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山した寺院で、足利氏の庇護により、南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位におかれ、寺門は大いに栄えていました。
 しかし応仁の乱の兵火や足利氏の衰退により消失してしまいましたが、華林惠厳禅尼の入寺以後は宝鏡寺の住持が景愛寺を兼摂することとなり、
現在まで景愛寺の法灯は宝鏡寺が受け継いでいます。
また寛永21年(1644)、後水尾天皇々女久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺されてより、紫衣を勅許され、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤める慣わしとなりました。
 天明8年(1788)の大火では類焼しましたが、寛政10年(1798)竣工の書院をはじめ、本堂、大門、阿弥陀堂、玄関、使者の間の6棟が復興され、現在は京都市指定有形文化財に指定されております。
文政10年(1827)年上棟の本堂は前後三室からなる六間取の方丈形式で、書院には円山応挙の杉戸絵、天保4年(1833)に円山応震と吉村孝敬が描いた襖絵がはめられています。

扁額(宝鏡寺門跡22世本覚院宮筆)
 阿弥陀堂は勅作堂ともいい、光格天皇勅作阿弥陀如来立像が御所より移される折りに移築された建物です。
明治の廃仏毀釈以後は、宝鏡寺住職が代々兼務していた大慈院を合併し、本尊の阿弥陀如来立像、開基である崇賢門院(すうけんもんいん)御木像、尼僧姿の日野富子(ひのとみこ)御木像も阿弥陀堂に安置されています。
 ご存じの通り、大聖寺をはじめ京都や奈良にございます尼門跡寺院にはたくさんの人形が保存されています。これは代々内親王が入寺され、父君である天皇から季節やことあるごとに人形が贈られてきたことに由来します。
宝鏡寺も例外ではなく、多くの人形が所蔵されています。中でも特に最近代の皇女である霊厳理欽尼(れいごんりきんに)には、三組の雛人形、猩々人形などが残っています。このような人形を内々で公開することはありましたが、内外からの要望により、昭和32年(1957)年秋より人形展を始められ、それ以降は毎年春と秋に一般公開することになりました。
 その後関係者により年一回、秋に人形供養祭(及び関係物故者供養祭)が営まれることとなり、
昭和34年の秋には壊れたり汚れたりして捨てられてしまう人形を弔い供養し、その霊を慰めるために、人形製作に携わる人々及び有志などによって人形塚が境内に建立されました。人形塚は、吉川観方(よしかわかんぽう)氏による手に宝鏡を持った御所人形の姿をしており、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)氏による
  人形よ誰がつくりしか 誰に愛されしか知らねども
愛された事実こそ汝が成仏の誠なれ という詩が刻まれています。
 仁孝天皇(にんこうてんのう)を父君とする和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、公武合体のため徳川将軍家茂公にご降嫁され、明治維新の“江戸城開城”に隠れたご功績を残されました。
 ご幼少の頃、百々御所(宝鏡寺)へお成りになっては、若い上臈(じょうろう)たちとすごろくや貝合わせなどに興じられたり、鶴亀の庭で遊ばれたりしました。また、とくに母方の祖父である橋本実久卿がお亡くなりになった際には、宝鏡寺に住まわれ、その間よく上臈たちとお経を唱えられたということです。このようなことから、宝鏡寺には絵巻物をはじめとした和宮様のご遺品が、御所より特別に下賜されました。
 公卿日野政光の息女日野富子(1440〜1496)は、室町幕府八代将軍足利義政(よしまさ)の妻となりました。我が子義尚(よしひさ)を世継ぎにしようとしたことが、“応仁の乱”を引き起こした原因のひとつとされました。
後円融天皇の母、崇賢門院(すうけんもんいん)を開基とする大慈院(浄土宗)が明治初期まで宝鏡寺に隣接してあり、後に富子は出家して妙善院(みょうぜんいん)となってここに入りました。いま大慈院は宝鏡寺に受け継がれて日野富子のご木像も安置されています。また、宝鏡寺第15世渓山(けいざん)禅師は、義政と富子の息女でもあります。

大玄関
寝殿造り風の大玄関、寺の重要行事以外門は閉ざされています。人形展開催時は横の通用口から出入りします。

鶴亀の庭

神仏霊場 ご朱印

                 人形展開催時の管女?人形

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