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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 12番 仁和寺

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真言宗18本山の一つであり近畿36不動尊の札所でもあります真言宗御室派の総本山です
京都府、楽土の道
(92)大内山 
旧御室御所 仁和寺(にんなじ)
住 所 〠 616―8092 京都市右京区御室大内33
電話番号 電話 075―461―1155
本  尊 阿弥陀如来
開 山 宇多天皇
創  建 仁和4年(888)
アクセス JR花園駅下車、JR花園駅から徒歩約15分タクシーにて約5分
     嵐電御室仁和寺駅下車 徒歩約2分
<寺歴・縁起> H/P http://www.ninnaji.or.jp/
真言宗御室派総本山 真言宗18本山6番 京都13仏霊場9番
近畿36不動尊14番 御室88所霊場 神仏霊場 巡拝の道 第92番

 仁和寺の歴史は仁和2年(886)第58代、光孝天皇によって鎮護国家、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」(にしやまごがんじ)と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
 しかし光孝天皇は志なかばにして崩御せられ、次の第59代、宇多天皇が先帝の遺旨を継がれ仁和4年(888)にその造営を完成されました。西山御願寺は先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって仁和寺(にんなじ)と呼ばれるようになりました。
宇多天皇が仁和寺第1世門跡宇多法皇となり入山されてからは、江戸時代終わりまで皇室出身者が代々門跡を務める事となります。
 しかし応仁元年(1467)に始まった「応仁の乱」によって仁和寺は一山ことごとく兵火で焼失するという悲運に見舞われました。それから1世紀半の間は現仁和寺の南にあります双ケ丘に堂舎をかまえ、法燈を守るのみとなってしまいました。
応仁の乱から約150年後の江戸時代に入ると、当時の仁和寺門跡でありました覚深法親王が徳川幕府3代将軍家光と復興援助を約し、現在の仁和寺が再興されるところとなりました。
 丁度その頃、京都御所を再建する時期に当たっていたので現在仁和寺金堂となっている「紫宸殿」の他、多数の建造物を下賜されました。また金20万両もの再建資金が仁和寺に渡され、かつての繁栄を取り戻す事が出来ました。
江戸時代末期になると、第30世門跡純仁法親王が還俗したことにより皇族が門跡となる宮門跡の歴史を終える事となりました。
昭和に入ってから、仁和寺は真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)の総本山となり、近年では平成6年(1994)に古都京都の文化財の1つとしてユネスコの「世界遺産」に登録され新たな歴史を刻んでいます。
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光孝天皇     宇多法皇   純仁法親王

南方上空から見た伽藍
写真下に見える仁王門から中門を経て金堂まで、南北にまっすぐな参道が走る。その西側手前から壮麗な御殿、御室桜で有名な桜の林、観音堂、鐘楼と続き、北西奥が御影堂、東側の後方には五重塔、九所明神、経堂等が、緑の森に埋もれて点在してる。

仁王門
重文 江戸時代(寛永14年〜正保元年)
境内正面に建つ巨大な二重門。柱間5間の内中3間を戸口とし、左右各1間に仁王像を安置する。建立当時には南禅寺や知恩院の三門が禅宗様式なのに対
して仁和寺の仁王門は円柱形の柱とその上の三手先、組物、上階の組高欄から
側面破風の懸魚に至るまでへいあんじだいの伝統を引き継ぐ和様でまとめてあ
る。法親王による法灯をともし続けた門跡寺院らしさを意図したとみられる。

五重塔と初層内陣
 伽藍中心の東に建つ塔で、灯身の高さは32.7m寺伝では寛永14年とされていたが、昭和の屋根葺替えで寛永21年(1644)の墨書きがある土居葺板が発見され、この頃完成を見たらしい。遠目には東寺の五重塔と同様、上層と下層の幅が余り差のない江戸時代の層塔の姿形であるが柱の上の組物をシンプルな三手先とし、蟇股などに彫りもの彫刻を行わない等、古代の和風スタイルを踏破する。初重西側正面に大日如来を象徴する種子(梵字)の額を懸げる。
 初層内陣はまさに胎蔵界の仏の空間である。須弥壇中央に四方を板で囲う心柱が立ち、本来ここに坐すべき定印の胎蔵界大日如来が礼拝者の前にいる。その脇に西方仏の無量寿如が坐し、北、東、南の順に天鼓雷音、宝幢、開敷華王の諸仏がめぐる。堂内は彩色画で埋め尽くされる。四天柱に諸仏、側壁内側に真言八祖を描く一方で頭貫に江戸時代初期の建築装飾意匠の典型である菱格子文、格天井に門跡寺院らしい菊花文字を表す等、細部まで意匠を尽くしている。

晩秋近くの金堂

     勢至菩薩立像   阿弥陀如来座像    観音菩薩立像
阿弥陀三尊
 密教寺院である仁和寺が本尊として阿弥陀三尊像を祀るのは一見不思議なことであるが、これには仁和寺の創建時の金堂本尊もまた阿弥陀仏でそれを踏襲したことになる。須弥壇背後の来迎壁には多宝塔や瑜祇塔等の彩色を描くが前身の紫宸殿においてはここに狩野孝信の描いた賢聖障子絵が嵌っていた。
本尊前の密教修法を行う大壇も仁和寺への移建時に据えたものか。

金堂内陣
阿弥陀如来座像 国宝 平安時代 漆箔 像高89.5Cm
 仁和4年(888)創建の仁和寺金堂の本尊。左右人差し指を背中合わせに立てる弥陀定印を組み、観音、勢至両菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊像の最古例として知られる。檜の一木造りで、胸から左脇にかけて見られる乾漆の盛り上げ、 
高い肉髻や切れ長の目は平安時代前期の密教仏の特色をよく示すが、全体に
醸し出された穏やかさは、西方浄土の仏ならではのものであろう。密教寺院でこのような阿弥陀を本尊とするのは、寺を発願した父の光考天皇の追善菩提を願う宇多天皇の意思と、浄土教を胚胎させつつあった天台宗の僧、幽仙が初代別当であったことを背景に見る考えがある。
 左右脇侍 国宝 平安時代 木造 漆箔 像高 左脇侍122.7Cm 右脇侍 123.8Cm 中尊の阿弥陀如来に沿う容貌、体躯を表現した菩薩立像。観音と勢至菩薩では有るが頭上にそれぞれ化仏、水瓶を表す通常の形を取らないのでどちらを観音、勢至とする説が一定しない。宝冠や腕の釧は金銅製で、薄い銅板を透かし彫りし、細部を打ち出して立体感を出す。菊花型を中心に細長い唐草を重ねながら展開させる図様や鏨彫りの作風は平安時代後期の金工を思わせるが同時期の彫刻である醍醐寺の如意輪観音像の宝冠とも近似するのでやはり当初の品とみるべきであろう。

観音堂

           観音堂 内陣
 観音堂:金銅の手前、西寄りに建つ。仁和寺創建の40年後、延長6年(928)の建立とされるが現観音堂は寛永年間(1624〜1644)の諸堂復興時に再建された。たちの高い近世寺院建物の外観ながら、正面をすべて板扉とするのは三十三間堂など平安時代後期の形をとりいれたものと考える。内陣と外陣の境は、密教修法の堂宇らしく、中央3間の桟唐戸と両脇の板扉で完全に仕切る。
 内陣:内陣から奥は鏡天井が張られている。十一面千手観音菩薩像はじめ諸菩薩を安置する須弥壇は中ほどを絞り彫物で飾った禅宗様式を見せ、その前に大壇を据えている。
十一面千手観音菩薩像(像高149.2Cm)と不動明王、降三世明王、二十八部衆像(像高約90Cm)が祀られている。いずれも寛永復興期の造立。内陣では密教儀式の伝授が行われる。

御影堂

御影堂内陣

 御影堂 重文 江戸時代
境内の北西隅に建つ檜皮葺、宝形造りの堂宇で、弘法大師空海の像を祀る。
建歴元年(1211)の創建ながら今の建物は慶長年間(1596〜1615)造営の
内裏清涼殿の部材を賜り、寛永年間に再建されたもの。昭和の屋根葺き替えで樽機に「せいりょうでん」と墨書きのあるのが発見された。また蔀戸の禅形の金具なども、清涼殿の物を再利用する。ただ全体の外観は素子の住まいと云う意味を込めて、軽やかで瀟酒な姿に形を変えている。
 内陣 3間1間 正面を板扉と壁で仕切る。板扉には、金堂板扉と同じく、桃山時代の雰囲気を濃厚に残す菊花を一杯にあらわした飾り金具を打つ。ただ作行きは同じ扉でも個所により異なり、金堂飾り金具とも異同があり、寛永復興期の金具職人(錺師)たちの個性まで見てとれる。内陣の須弥壇上には唐破風屋根の厨子を設け大師像を安置する。こちらの扉は鉄打ちものの簡素な金具を着け、格天井にも彩色や金具装飾を行わず、此処にも大師の住まいとしての落ち着いた空間作りの意図をくみ取ることができる。

愛染明王(木造 平安時代 像高51.7Cm)
 愛染明王は、頭上冠を被り、忿怒相に三目六臂、すなわち両眼の上、眉間にも一眼を表し、6本の腕を持って各々に金剛鈴などの持ち物を執る。本像もそのような規則に則った造形である。頭と体部を一木で作ったのちに割はなって、腕や膝を組み合わせる割矧造りにより、怪異な中にもふっくらとおだやかなふんいきをただよわせ、平安時代後期に遡る希少な作例と分かる。その名の通り、愛欲の煩悩を絶つ仏で、男女和剛やこの誕生を願う敬愛法、増益法の本尊とし
て信仰された。

多聞天立像     増長天立像
多聞天立像(木造彩色 像高109.1Cm)
増長天立像(木造彩色 像高108.2Cm)
 もと、金堂本尊、阿弥陀三尊像の四方を護った四天王の内の増長天と多聞天とみなされる。榧とみられる一木で頭から邪鬼までを彫り出し、内刳を施さない、いたって古風な制作法で、頭部をおおき間に造りいささかずんぐりとした体軀の姿も9世紀後半の阿弥陀様と同時期の作とみる証左となる。肉身や着衣の彩色も造像当初のものである。

霊明殿      霊明殿本尊薬師如来坐像
 霊明殿 明治時代 宝形造 檜皮葺 薬師如来坐像を祀る
歴代門跡の位牌を安置する。明治の設計者亀岡末吉より、明治44年(1911)に竣工した。中世仏堂の趣を漂わせつつも、屋根に頂く宝珠の斬新な装飾をはじめ、随所に亀山ならではの近代性が見てとれる。
 薬師如来坐像 もとは仁和寺北院の本尊で、空海請来と伝える像が焼失したので康和5年(1103)本像が再興された。仏師は法印圓勢と長圓。
 白檀による壇像で、光背、台座も当初の制作になり、半肉彫の七仏薬師、日光、月光両菩薩、十二神将には彩色を施す。長らく秘仏だたので、素地も歳月を感じさせず、金箔を漆で押した截金文様が光彩を放つ。光背、後屏背面の薄肉彫り装飾文様も所見で宝相華唐草は半世紀前の平等院鳳凰堂、阿弥陀如来の光背、天蓋のそれを受け継ぎ、さらに繊細さを増している。

孔雀明王像
国宝 北宋時代 絹本著色 縦168.8Cm 横103.3Cm
 仁和寺では平安時代以来、旱魃や疫病、天変地異、天皇中宮の出産等があると、歴代門跡が孔雀修法という密教修法を修し、交験絶大なることが聞こえていた。この修法の本尊が孔雀明王像で、空海の伝えた画像が用いられた。また中国から新たな画像が次々と舶載された。本像は北宋に遡る貴重な遺例。三面六臂の明王が孔雀に乗って来臨した様を描く。顔や装身具、孔雀の細部に至るまで、色彩の階調を微妙に変えつつ描きこむ写実性と、金泥による線描写があいまって、拝する人に幻惑に近い強い印象を与える。

真言宗18本山 御詠歌ご朱印

神仏霊場 ご朱印

              近畿36不動尊 ご朱印 
京都府、楽土の道

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