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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 4番 教王護国寺

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東寺さんで有名な寺院で真言宗18本山の一つでも有り、弘法市でも賑わう寺院で12月の終い弘法や1月の初弘法などテレビなどで中継される事もしばしばある寺院です
京都府、楽土の道
(84)八幡山 教王護国寺 
東寺(とうじ)
住 所 〠 601―8473 京都市南区九条町1
電話番号 電話 075―691―3325
本  尊 薬師如来(重文)
開 山 桓武天皇
創  建 延暦15年(796)
アクセス JR京都駅西口下車徒歩15分
<寺歴・縁起> H/P http://www.toji.or.jp/
東寺真言宗総本山 真言宗18本山第9番 西国愛染17霊場第8番
洛陽33所観音霊場第23番 京都13仏霊場第12番 都七福神(毘沙門天)
神仏霊場 巡拝の道 第84番

 東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934)に国史跡に指定された。
東寺の正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての公称は「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)、詳名は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院である。
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。教王とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての公称は教王護国寺であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は教王護国寺五重塔となっている。そうした観点からは、近代以降の法人名としては教王護国寺が正式名称であるといえる。ただし、東寺という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。現代においても、南大門前の石柱には真言宗総本山 東寺とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には東寺とあり、宝物館の名称を東寺宝物館とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。
平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という
表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。教王護国寺という名称は平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年(1240)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。
 8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)[5]という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの延暦15年(796)を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823)、真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181〜1252)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。
空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家や徳川家などの援助により、金堂、五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
東寺を知らなくても新幹線が京都駅近くなると見えてくる五重塔なら京都に
着いたとか関西に来たとか実感がわく、その塔のある寺院であります。

伽藍全景
 京都駅から徒歩で来ると写真上の校舎(洛南高校)の横から参詣する形となる。本来は写真手前の南大門から参詣するのが正統だろうと思う。
南大門から駅から歩いてくると北大門から参詣することになる。南大門から一直線上に金堂、講堂、食堂が並ぶ。新幹線から見える五重塔は右端、左端は潅頂院で非公開、その上には子院の観智院と宝菩提院が並ぶ。

金堂
慶長8年(1603)復興、東寺最大の建造物二重の屋根を持つが内部は平屋だ。

月光菩薩       薬師如来坐像      日光菩薩
木造 像高290.0Cm 桃山時代 重文
金堂内には薬師三尊形式でお祀りしてあり、庶民の病苦を癒し、悪霊を防ぐとされる薬師如来。光背に7体の小仏を彫り出していることから、七仏薬師とも云われる。台座の12神将は薬師如来の眷属で、12体それぞれ個性的な造形を見せている。三尊像はいずれも慶長8年(1603)造作である。
三尊とも仏師、康正の渾身の作である。
金堂には他の仏像を安置していません。この三尊がおわしますだけである。

講堂
室町時代 重文 金堂と隣接する講堂は文明18年に焼失し延徳3年(1491)再興。入母屋造り本瓦葺で創建当時の基壇、礎石の上に建てられた。

大日如来坐像
木造 像高280.0Cm 室町時代 重文
 宝冠、首飾り、腕釧など豪華な装飾を着けた大日如来坐像。左の人差し指を右手のひらで包む智拳印を結ぶ。大日如来は太陽にも例えられ万物を慈悲と知恵の光で照らすとされる。

講堂内の諸仏
木造 平安時代(五智如来と五大菩薩の中尊は中世以降の後補)国宝
(中尊以外の4菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天)および重文(五智如来)講堂内を東側から西側を見る。写真中央左、一番高い背光を背にしているのは宝冠を頂く大日如来坐像、真言密教の教主である。全部で21体の尊像が講堂を埋めるさまに、過剰と云う言葉はあたらない。これを平面の絵画にすると1枚の曼荼羅になると云う。

大威徳明王騎像
木造 像高100.9Cm 平安時代 国宝 講堂
五大明王のひとり。三面の頭上にさらに三面を重ね、六臂六足で水牛にまたがる。六足尊とも云われ、悪毒を伏する威力と徳を備え戦勝祈願にも用いられた。姿かたちは異様だが裙の衣紋は流麗で美しく、腕の釧も華麗である。

不動明王坐像
木造 像高173.3Cm 平安時代 国宝 講堂
 五大明王は五智如来が変身したもので、不動明王は大日如来に対応する。髪を横に梳き顔をやや右に向けつつ両眼を見開いて正面を見る。これは空海が唐よりも垂らした図像による大師様と呼ばれる。彫刻の不動明王としては最古の作例で、ゆったりとして存在感がある。

梵天坐像
木造 像高103.6Cm 平安時代 国宝
 梵天はバラモン教では最高位のプラフマンと云う創造の神であり、帝釈天と共に仏教にとりいれられて仏法の守護神となっている。蓮華座は四羽の鵞鳥が支えており四面四臂で正面だけが三眼である。肉感的な密教独特の姿である。

降三世明王立像
木造 像高173.6Cm 平安時代 国宝 講堂
 五大明王の一人、三面の後ろにも一面付け、四面八臂の姿。各手に持つ武器は明王の威力を示す。降三世とは貧瞋癡(とんじんち。むさぼり、いかり、おろかさ)と云う三界の悪を降伏することを意味する。足下に踏むのはヒンズー教の主尊シヴァとその妃ウマ、シヴァは煩悩をウマは無知を表すという

帝釈天半跏像
木造 像高105.4Cm 平安時代 国宝 講堂
 帝釈天は古代インドの神、インドラの神の事、鎧を着るのは帝釈天が天界の聖戦士であるため。対をなす梵天が半裸形の坐像で鵞鳥座に乗り本像が象にまたがるのは共にインド的要素で東寺独特の形である。

御影道 南北朝時代 国宝
 前堂と後堂に別れた複雑な構造を持つ。常に庶民に開かれており、大師縁日(毎月21日)は境内散策の一休みを兼ねて参詣する人々も靴を脱ぎ外陣に正座出来るお堂は東寺では此処だけである。また四国巡礼に出発する人や西国33所巡礼等に出掛ける人はお大師様に巡礼安全と一緒に付いてきてくださるようお願いに参上する御堂でもあるのです。
 別名大師堂とも云う。天福元年(1233)御影供が始まったが康歴元年(1373)の火災で焼失したがただちに再建される。檜皮葺の屋根がゆるやかな勾配を描く和風建築でもとは弘法大師の住房があった。
弘法大師像と秘仏の不動明王坐像を安置する。

弘法大師坐像
木造 像高83.3Cm 鎌倉時代 国宝
鎌倉時代、天福元年(1233)仏師運慶の息子、康勝によって制作された。
大師像彫刻としては最古の像。

神仏霊場 ご朱印
             
金剛界曼荼羅                   胎蔵界曼荼羅

五重塔
江戸時代 国宝 5度目の再建による安定感のある塔である。
4度目の塔は寛永12年(1635)に焼失、寛永18年(1641)着工、正保元年(1644)入仏完成した。外観に細やかな装飾を付けない古式な姿で仰ぎ見る者に創建当
時の塔を思い描かせる。
 東寺のシンボルと云える五重塔の完成したのは弘法大師、空海の没後約50年がたってからであり、天長3年(826)弘法大師は五重塔造営を願い出るが、完
成したのは元慶7年(883)頃とみられる。

初層内陣
心柱を大日如来に見立て、須弥壇上の四方に金剛界4仏と脇侍を配する。
四天柱には両界曼荼羅の尊像、四方の壁面には真言八祖像を画き、全体が密教の教義に基づいて荘厳されている。
側柱には八大竜王、長押(なげし)等にも華麗な色彩が施されている。
弘法大師が唐より持ち帰った仏舎利を心柱の基部に納入されてると伝わる。

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