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古寺巡礼コミュの豊饒の道 神戸 2番 西宮神社

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恒例の開門神事で有名な西宮の戎さんです
兵庫県、豊饒の道
(67)摂津國莵原郡
西宮戎神社(にしのみやえびすじんじゃ)
住 所 〠 662―0974 兵庫県西宮市社家町1―17
電話番号 電話 0798―33―0321
御 祭 神 第1段〜第3段
開 祀 不詳
アクセス 阪神電車西宮駅南出口徒歩5分
<神歴・縁起> H/P  http://www.decca-japan.com/nishinomiya_ebisu/
旧県社 境内社大国主西神社 式内社 摂津國莵原郡 大國主西神社 鍬靫
第一殿 西宮大神(えびすさま)
第二殿 天照大神,大国主大神
第三殿 須佐之男大神
もとは、廣田神社の摂社だったが、今は独立している。

 福の神「えびす様」の総本社として、全国から遍く崇敬を集めている西宮神社は、銘酒の産地として名高い灘五郷の一つである西宮市の中央に鎮座し、その地名の由来ともなっています。
御創建の年代は明らかではありませんが、平安時代の百科事典である伊呂波字類抄や承安2年(1172)に行われた広田社歌合に「えびす」の名が見えるほか、高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族、神祇伯の参拝が度々あったことが古文書に記されています。
 鎌倉時代の正元年間(1250年代)には、既に十日えびすの祭典を厳粛に行うために「忌籠(いごもり)」が斎行されていました。
延文6年(1361)の市場祭文によると門前は「夷(えびす)三郎殿の浜の市」として賑わっていたようです。
室町時代になると七福神信仰によってえびす様が福の神の代表となり、また当社がその信仰の本拠地として人形操りや謡曲、狂言などの芸能をとおして、
全国津々浦々にまで御神徳が広まっていきました。現在国の重要無形文化財に指定されている大阪文楽や淡路島の人形浄瑠璃は、当社の「えびす舞」が源流となっています。
戦国時代には、後奈良天皇から御寄進をうけたのをはじめ、桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には四代将軍徳川家綱により社殿の御造営がなされました。 
また徳川幕府からは御神像札の版権を得て独占的に全国に配布、ますます社勢が盛大になっていくと共に上方の商業経済の発達に伴って、福の神えびす様が商売繁盛の神として信仰されるようになっていきました。
国宝の三連春日造の本殿は、昭和20年(1845)に戦火にあいましたが、昭和36年(1961)にもとのままに復元されました。室町時代建立の大練塀と桃山建築の表大門は国の重要文化財に、えびすの森は天然記念物に指定されています。
 明治時代以降は、交通機関の発達に伴い、参拝者数も飛躍的に増加し、現今では1月10日を中心に9日からの3日間は「十日えびす」として名高く全国から3日間で百万人を超す参拝者で賑わいます。

国宝の三連春日造の本殿
境内社の大国主西神社は、式内社とされているが、
これは、廃絶した式内社の所在が判明するまでの暫定にすぎない。
おなじく境内社の百太夫神社は、傀儡子の祖を祀るもの。
西宮神社が、全国区になった要因は、恵比寿絵の版権を得たことと、百太夫に代表される傀儡子達が全国を渡りあるいたからだろう。
西宮神社の「西」、大国主西神社の「西」の意味には色々な説がある。
・旧莵原郡の西の境界にあった。
・廣田社の西にあるお宮。(実際は南にある)
・津門集落の西、畿内の西、難波の西。
・昔、大国主を祀る神社があり、その西にあった。
・昔、大国主を祀る神社が、東西にあり、その西の社。
などなど、確定していない
 神社辞典には
 西官神社 兵庫県西宮市社家町。
 旧県社(現、別表神社)。西宮大神(蛭子命)を主神に天照大神、大国主大神、須佐之男大神を祀る。当社はすでに平安時代に当社地に鎮座されていたことは、境内より出土の蓮華文古瓦により明証され、また『伊呂波字類抄』を徴しても明らかである。高倉上皇の奉幣、後奈良天皇の御寄進があるほか、広田神社との神縁により神祇官の長官白川伯王家との関係が深く、常にその参詣を得ていたことは伯家文書にも詳しく記されている。中世以来えびす神を福徳の神とする信仰が広まり、大漁満足、海上安全、商売繁昌に霊験ありと全国に知られていったが、その効を一層深めていったのは、神社の社人として境内の北隣に住居していた「傀儡師」がえびす神の人形操りを行って津々浦々に巡回していったことも大きな要因となっており、現に人形操りの祖神として百太夫神が境内に祠られている。
江戸時代に入り、徳川家綱の寄進により本殿(三連春日造76平方メートル)が再建されたが、これを契機として全国各地に頒布していた恵比須神の神像画札の版権を徳川幕府から得たことは著名であり、現在も全国に配布されている。例祭は9月22日に行われ、神幸祭が毎年斎行されているが、最も盛大な祭典は1月10日の十日戎で、阪神間最大の祭りとして10日前後の3日間は境内に賽者が満たされる。この他、6月14日に行われるおこしや祭は、当社鎮座の由来を今に伝えるもので、寄神信仰の基本的な姿がここでも見出され、11月20日には誓文祭(全国各地ではえびす講の祭)が行われる、現在の社殿は戦災後昭和36年に再建されたものであるが、三連春日造の国宝建造物をその通り素木造にて復元された。表大門(桃山時代)、大練塀(室町時代)はともに重文に指定されている。
社宝に慶長15年(1610)銘の銅鐘があり市指定文化財となっている。
 和漢三才図会に
西宮 西宮町の西(西宮市社家町)にある。
祭神 三座 天照大神〔素盞嗚尊・蛭児尊〕 相殿〔左は大己貴尊、右は事八十神〕
『日本紀』にいう。伊弉諾尊・伊弉冊尊二神は蛭児神を生まれたが、三歳になっても足が立たなかった。そこで天磐橡樟船に乗せ、風に任せて放ち棄てた。
  (夫木)かぞいろはいかに哀れと思ふらん三とせになりぬ足たたずして(匡房)
(以上『国花記』による)
『神社啓蒙』にいう。俗に夷三郎というのは誤りである。夷は別に一気の神である。蛭子は天照大神の弟である。
 ある紀にいう。神武天皇が長髄彦と戦った時、天皇の軍は矢が尽きて退却した。椎根津彦神(大和の国神。大和国造の祖という)が、すぐに持っている箱から数万の矢を出し、天皇の軍は気力を得て逆賊を射て退けた。また食が尽きれば箱の中から食を得て諸軍卒らに与えた。また、箱の中から数々の宝物を出してないものと代えてきたため、御軍は豊饒になった。天皇は大そう不思議に思われ、汝はどうして自在神力の術があるのか、と問われた。椎根津彦神は天皇に答えて、我は由緒ある神である。後日になって申そう。今は強いて問うな、と言った。その後天下を治めた時、天皇はまだこの由緒を問われた。椎根津彦神は、我は天祖の始めの子、蛭子命の大神である。今来たって汝尊を助けるのである。我は世の富事を司る、と言った〔今瀬津(摂津)国広田大神祠に在す西宮の大神である。俗に得美栖と称する〕。
  畋を守って幸を得 市には賈を守って幸を得 田には種を守って幸を得 軍には戦を守って幸を得 朝(みかど)には事(みやづかえ)を守って幸を得る。天下の富持神である。在って広田国に住む、といわれたという。
 祭 正月10日 村民は9日朝から夜になるまで戸を閉して出入りしない。これを居籠り(いごもり)といい、一風変っている。とある。

拝殿

反り橋(太鼓橋)

神仏霊場 ご朱印

梅宮神社 酒解神  宇賀魂神社 宇賀御魂命 神明神社 豊受比女神

廣田神社摂社南宮神社 豊玉姫神・市杵島姫神・大山咋神・葉山姫神

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