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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良25番 壷阪寺

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正しくは南法華寺と云う真言宗のお寺です。戯曲で有名なお里、沢市の物語でも有名で寺院内に特養老人ホームも併設されています。
奈良県、鎮護の道
(38)壺阪山 平等王院 
南法華寺(みなみほっけじ)
住 所 〠 635―0102  奈良県高市郡高取町壷阪3番地
電話番号 電話 0744―52―2016
本  尊 十一面千手観音菩薩
開 山 弁基上人
創  建 大宝3年(703)
アクセス 近鉄南大阪線 壺阪山駅下車 バス(タクシーあり)
<寺歴・縁起> H/P http://www.tsubosaka1300.or.jp/
真言宗 単立 西国33所 第6番 神仏霊場 巡拝の道 第37番

 創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。
南に桜の名所吉野山を控え北に万葉のふるさと大和三山、奈良盆地を一望におさめる壷阪の山に建つ。
真言宗の寺。西国33所観音霊場の第6番札所。
本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として全国各地から毎日多くの参拝者が訪れる。
創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が多数出土している。その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となった。養老元年(717)に元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。
礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。
胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。殊に眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として、広く信仰を集めてきました。
平安期には、長谷寺とともに定額寺に列せられ(847)、平安貴族達の参拝も盛んになり、ことに清少納言は「枕草子」のなかで「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺として、筆頭に挙げている。
また、左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊したという記録も残っている(1007)。
この頃、子島寺の真興上人が壷阪寺の復興にあたり、真言宗子島法流(壷坂法流)の一大道場となり、西国33所の観音霊場信仰とともに、寺門は大いに栄えていった。
その後数度の火災にあうが、その度に山僧の合力により再建がなされてきた。
 しかし、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していく。
一時は山内に36堂、60余坊の大伽藍を配していたが、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなった。
近世の壷阪寺は豊臣秀吉の弟秀長の家来本多利久が高取城主となり、本多氏とその後明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。
明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が初演され、歌舞伎、講談、浪曲となり壷阪寺の名は大きく世に広まっていった。(壺坂霊験記)
戦後、壷阪寺は社会福祉活動に貢献し、昭和36年には、多くの善意が結実して、日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を設立。現在も国内各地で社会福祉活動に寄与している。(社会福祉法人壷阪寺聚徳会)
また、昭和39年より、インドにてハンセン病患者救済活動に着手し、教育助成事業や地域開発援助などの国際奉仕活動を、現在もインド各地にて幅広く行っている。(財団法人アジア・アフリカ国際奉仕財団)

壺阪観音縁起絵巻
 狩野信光筆 紙本著色 江戸時代 寛文2年(1662)
この絵巻物はお里、沢市の話ではなく、壺阪に逼塞する貴族の娘が「ちかき寺」 
 で孝行を説かれ、亡父の13回忌の費用を工面するため、身売りをする事を決意する。陸奥の商人に買われた姫は安達(現、二本松市)迄連れてこられ、商人の娘の身代わりとして大蛇の生贄になる事を告げられる。近国、近郷の群衆が見守る中、大蛇を前に姫は猶予を乞い、「法華経」を読経、両親のみならず商人や大蛇の為にまで回向する。大蛇は「法華経」の功徳と姫の考心により成仏し、商人には砂金を娘の身代金として渡し、姫を乗せて昇天する。娘は弁財天、大蛇は壺阪の観音の化身であると話を結ぶ。「ちかき寺」が壺阪寺をさすものかどうかは文中でははっきりせず、壺阪観音の霊験と云うよりは「法華経」の功徳を説く内容となっている。奥書によれば詞書は東大寺清涼院実海が寛文2年(1662)に撰述したものを清水宗陳が揮毫し、絵は狩野信光が描いたと云う。

 室町時代の樫材の寄せ木造り、それ以前の本尊千手観音像に代わって造られたのだろう。蓮華座上にどっしりとした姿、ふくよかな顔立ちをする。御本尊である十一面千手観音菩薩座像は「眼の佛」として広く信仰を蒐めている。
奈良、平城京を開いた元正天皇は皇女の折り、壷阪寺に詣で眼病の治癒を祈ったと伝えられ白鳳という古い時代から壷阪観音として多くの人に親しまれて来た。桓武、一条の天皇の眼病も平癒された。
明治に生まれた壷坂霊験記は義太夫や浪曲に取り組まれ、歌舞伎や人形の舞台で演じられている。
40の慈手をひろげ、その一手に25有界の衆生の苦しみを救うと説くが、現代語に訳するなれば、地球のあらゆるところでいろいろな苦しみ、そして悩みに自らを失っている人たちを救う実際の行動を表している。正面向かって右に赤い玉を持った手が日摩尼手で眼を救う御手と云われている。正面合掌しsている御手と合にて四十二手、その一つ一つ眼があると云う。
我々が背中が痒いときなど自然に手がその場所へ、お腹が痛いとき千の手の一つが痛みを和らげる。私たち自身が観音様になって自らの手を慈手にし、自らの眼を慈眼にしてて衆生の中に飛び込めと教えているのだ。

不動明王
 木造・玉眼・彩色 像高96.4cm
鎌倉時代 13世紀
左眼をわずかに閉じ、口角に上下に牙をあらわし、右手に剣、左手に羂索をとる不動明王立像。構造は、前後に二材を寄せる寄木造とみられ、面相部はさらに別材を矧ぎ、玉眼を嵌入する。腰を大きく右にひねった動勢のあるポーズ、不動明王らしい肥盛した体つきをダイナミックな肉付けで表現した奥行のある体躯、玉眼とも相まって力強い怒りの表情をつくり出している深い彫りの目鼻立ちなど、鎌倉時代の充実した写実表現が特徴である。

一字金輪曼荼羅
 絹本著色 縦107cm 横83.8cm
鎌倉時代 13世紀
一字金輪仏頂を本尊とする曼荼羅で、『金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌』に基づいて描かれる。一字金輪仏頂の像容はおおむね金剛界大日と一致し、蓮華座の下に7頭の獅子が配されるのが普通であるが、
本図では8頭となっているのが珍しい。周囲に、真下に置かれた仏眼仏母と、右回りに輪宝・珠宝・女宝・馬宝・象宝・主蔵宝・主兵宝の七宝を配する。
以上の9尊を、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院の形式に倣って、八葉蓮華に納め、四隅に宝瓶を据えた構成は、遍照光院本や奈良国立博物館本など、抽象的な地に諸尊を配列した他本と異なる。儀軌に説かれるところではなく、鎌倉時代の新図様ではないかとされている。

大日如来
 木造・漆箔 像高49.5cm
平安時代 11世紀
大日如来は密教世界の中心的存在で、本像は智拳印を結ぶ金剛界の大日如来像である。構造は頭・体幹部を一材から彫出する一木造で、木心を背面中央に籠め、内刳は施さない。
両肩より先や両脚部は別材製とする。なお、両肘より先、髻頂部、金銅製の宝冠は後補。太い髻、伏せた三日月型の目や突き出し気味の唇、抑揚のある両脚部の表現など、平安時代中期の余風を残すが、体躯の奥行きは浅く、目鼻立ちや衣の彫りも丸みを帯びており、11世紀に入ってからの造像とみられる。

神仏霊場 ご朱印         西国33所 御詠歌 ご朱印


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