ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良24番 談山神社

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
寺院から神社に変わったお寺の様な神社でありますが
奈良県、鎮護の道
(37)多武峰
談山神社(だんざんじんじゃ)
住 所 〠 633―0032 奈良県桜井市多武峰319
電話番号 電話 0744―49―0001
御 祭 神 藤原鎌足公
開 祀 大宝元年(701)
アクセス 近鉄大阪線 桜井駅南口下車 バス談山神社前 タクシーあり
<神歴・縁起> H/P  http://www.tanzan.or.jp/
旧別格官弊社 大和七福八宝巡り

 舒明、皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。
この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、
聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。
後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。
 天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。藤原の姓はここに始まります。
鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。
大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。
 中大兄皇子(天智天皇)に協力して「大化改新」を成しとげた藤原鎌足を祀る神社。当山の藤の花の下で談合したといい、山名を「かたらい山」という。
天智天皇8年(669)10月、祭神薨去の際、
天皇より藤原の姓を賜わり、大織冠内大臣という人臣最高の位を授けられた。
御墓は摂津国阿威山に造られたが、父の死を知らず唐で仏教を学んでいた
長男定慧が、天武天皇白鳳7年(679)帰朝し、弟不比等と相談の上、
鎌足公生前のゆかり地である多武峯に改葬し、十三重塔婆、講堂を建立して妙楽寺と称した。後、文武天皇大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、
鎌足公の御神像を安置したのが当社の創祀。
明治維新後、「かたらい山」の故事から「談山神社」と名づけられ、
明治7年、明治天皇の勅により別格官幣社に列せられた。
 談山神社境内御由緒には
談山神社 大化改新発祥之地
     大和国多武峯鎮座
祭神   藤原鎌足公
 藤原鎌足公は、推古天皇22年(616)、中臣御食子卿の長子として大和国高市郡大原に生誕され、幼名を鎌子と称した。中臣氏の祖は天児屋根命にて、代々神事を司どる家柄であり、公はその22代孫に当られる。
公は至誠一貫朝廷に仕え、皇極天皇の御代には中大兄皇子(後の天智天皇)と共に当神社本殿裏山の談山に於て国家革新を計り、ついに大化元年(645)「大化改新」を成しとげられ、更に近江大津遷都などの国家事業に尽くし、わが国の隆昌と安泰の為に偉大な功績をのこされた。天智天皇8年(669)内大臣に任ぜられ藤原の姓を賜り人臣最高の位大織冠を授けられ、同年10月16日薨ぜられた。
白鳳7年(679)、公の長子定恵は、この多武峯の山頂に父の墓を造り、十三重塔を建て父の御霊を弔った。のちに大宝元年(701)、方三丈の神殿を建立し、御神像を奉安したのが当神社の創祀である。当神社は古来国家鎮護の神、子孫繁栄の神また全国藤氏一族総氏神として朝野野尊崇をうけ現代に至っている。
旧別格官幣社 例大祭 11月17日 とある。
 和漢三才図には
 談山妙楽寺〔護国院40坊〕 寺領3000石余
 中大兄皇子〔天智天皇である〕は鎌足大連と共に都の東、倉橋山の峯の藤の花の下で密談し、謀計を巡らして終に逆臣入鹿を討滅した。それでその峯を呼んで談山(かたらいのやま)という。
 祭神 淡山権現〔即ち〕大織冠内大臣鎌足公である。(以上『国花記』による)
 鎌足公は〔姓は〕中臣氏、〔名は〕鎌子連、天津児屋根命の苗裔である。
〔皇極天皇の時〕諸皇子と相議し、入鹿父子を亡ぼした。天下静謐の功はひとえに鎌足の力である。〔孝徳天皇は〕錦冠を賜り内大臣に任じ、百官の上に置いて天下の政を執らせた。〔天智天皇8年(669)の冬〕微疾に罹ると、天皇は行幸して病いを問うた。また、皇弟〔のちに天武天皇と号する〕を鎌足の第に遣わし、中臣氏を改め、始めて藤原氏とした〔住居の地名である〕。
大織冠の官に昇り〔この官正一位相当〕、同年10月16日薨じた。
天子は行幸して激しく泣かれた〔年50、あるいは56という〕。摂州阿威山に葬る。時に長子定恵和尚は唐にいたが、帰朝して不比等に、亡父遺言の夢想があり、尊骸を談峯に改葬したい、と言って、詔を奉じて社を建てて祭った〔本姓中臣氏は意美麻呂(おみまろ)が相続して神事祭礼を主らしめた〕。
 十三重塔 定恵和尚の在唐中に唐の清涼山の宝池院の塔を摸して作った。廟窟の上に立てる〔治承元年(1177)再興〕。
 鎌足公の像 江州の高男丸が作る。また、検校千満法師がさらに新像を作り、古像を中に籠めた。〔右脇〕定恵和尚。
 神階正一位勲一等〔もし天下に変あらんとする時には(大職冠の)神像が破裂することがある。勅使が来て宣命を読むと治った。古例も少なくない〕。とあります。
 談山神社縁起
藤原鎌足公は、現、高市郡明日香村小原(おおはら)に推古天皇22年(614)誕生され、姓は、中臣、幼名を鎌子と称した。長じて性仁孝、聡明にして誠忠の心を懐き、学問を好んで広く智識を求められた。法興寺の蹴鞠会において中大兄皇子(後の天智天皇)の知遇を得、やがて国家改革の大業につながるのである。『多武峯縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作(註・入鹿)の暴逆をいかにせん。願くは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峯に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されている。この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮大極殿にて蘇我入鹿を誅戮し、中央統一国家及び、文治政治の完成という歴史的偉業をなしとげられたのである。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公は、その偉大なる生涯を閉じられる
。齢56歳。薨去の際、天皇より藤原の姓を賜わり、大織冠内大臣という人臣最高の位を授けられたのである。御墓は、はじめ摂津国阿威山に造られたが、父の死を知らず唐の国にあって専ら仏教を学んでいた長男定慧が、天武天皇白鳳7年(679)に帰朝し、弟不比等と相談のうえ、父生前の特にゆかりの深い多武峯に改葬したのである。さらに、十三重塔婆、講堂を建立し、これを妙楽寺と称した。後に、文武天皇大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置した。これが当社の創祀である。
後に醍醐天皇は「談峰大権現」、後花園天皇は「談山大明神」の神号を賜り、また宮中からは天下有事のとき神像御破裂、廟山鳴動の異変が起るやその都度勅使を遣わされた。永年に亘り、藤原一門はもとより広く朝野の信仰を集めつつ明治維新に至った。御祭神藤原鎌足公と中大兄皇子とが大化の改新の御相談をなされた本殿裏の「かたらい山」の故事から「談山神社」と名づけられ、
明治7年明治天皇の思召により別格官幣社に列せられた。境内には17棟の重要文化財建造物があり、特に木造十三重塔は世界唯一、総社は日本最古と称せられる貴重な建物である。

総社、本殿

重文 楼門、奥に拝殿          如意輪観音

総社 拝殿        重文 十三重塔婆
 鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが
発祥である。天武天皇9年(680)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。
平安時代に天台僧、増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけてはたびたび領地などを巡り争論を繰り広げていた。
天正13年(1585)、豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。天正18年(1590)に、帰山を許された。徳川家康により復興。近世の朱印領は3000石余である。明治2年(1869)に僧徒が還俗。談山神社と改称された。
仏教伽藍は現代も談山神社境内に見ることができ、登拝者も後を絶たない。
明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているため、独特の雰囲気を残している。
談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に藤原鎌足の墓所といわれる陵がある。談山神社から、少し歩いたところに藤原鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。
尚、拝殿や十三重塔は戦前に何度か日本銀行券の図案に採用された事がある。

境内入口           重文 閼伽井屋
 境内への入口は、鳥居のある正面入山入口と、社務所前の西入山入口とがあります。脚の弱い方は石段が少ない西入山入口から入られると比較的楽です。




祓戸社         春日社

如意輪観音      閻魔大王立像

神仏霊場 ご朱印

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング