ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良22番 長谷寺

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
真言宗豊山派の総本山です。時間がかかるので丸1日空ける事が出来る日に参詣しようと思っていますがなかなか空けられないものですね。
奈良県、鎮護の道
(35)豊山 神楽院 
長谷寺(はせでら)
住 所 〠 633―0193 奈良県桜井市初瀬731―1
電話番号 電話 0744―47―7001
本  尊 十一面観音(重要文化財)
開 山 道明
創  建 朱鳥(あかみどり)元年(686)
アクセス 近鉄 大阪線 長谷寺駅から徒歩15分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.hasedera.or.jp/index.html
真言宗豊山派総本山 西国33所8番 真言宗18本山16番 
神仏霊場 巡拝の道 第35番

 当山は山号を豊山( ぶさん )と称し、寺号を長谷寺( はせでら )と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。
「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。
朱鳥( あかみどり )元年(686)道明(どうみょう)上人は、天武天皇のおんために銅板法華説相図( 千仏多宝仏塔 )を西の岡に安置、のち神亀4年(727)徳道(とくどう)上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をお祀りになられました。
上人は観音信仰にあつく、西国33所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を西国33所の根本霊場と呼ぶ謂われであります。
現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山として、 また西国33観音霊場第8番札所として、 全国に末寺3000余ヶ寺、 檀信徒はおよそ300万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。
とH/Pには記載されています。
 長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686)、道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。
天正16年(1588)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育、僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

大和名所図会
 初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。このうち、本堂は慶安3年(1650)の竣工で、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立である。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。仁王門は明治18年(1885)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889)の再建である。

本堂(礼堂)
 徳川幕府による大規模な造営として代表的な寺院本堂であり、我が国における観音信仰の中心的な役割を果たした重要な建築として、平成16年12月に国宝の指定を受けました。
小初瀬山の中腹にぐいと張り出した懸造り(舞台造り)の大建築で観音堂、大悲閣ともいいます。
間口、奥行きとも9間の本瓦葺き。正堂(内陣)と礼堂(外陣)をひとつにした双堂と呼ぶ様式で、間に石敷の土間(拝所)を設けています。
南面は豪快な入母屋造りですが、屋根の構成は複雑で八ツ棟造りとも呼ばれています。
舞台からの眺めはすばらしく、眼下は起伏を微妙に生かした境内のたたずまいがひと目です。
 本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538)に再興(現存)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。

本堂(礼堂)の懸造部分
 現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650)に落慶したものである。同年6月に記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。
天正再興時の本堂は、元和4年(1618)には雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある。高さ10メートル以上ある本尊、十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。
本堂は傾斜地に南を正面として建つ。平面構成、屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊を安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。全体の平面規模は間口25.9m、奥行27.1m。正堂は一重裳階(もこし)付き。構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階をめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下の文中においても同様)。
礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分を相の間とする。礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻を大きく見せる。礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化している。礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風を付し、屋根構成をさらに複雑にしている。礼堂の前半部分は床下に柱を組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台を張り出す。屋根はすべて本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とする。
礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とする。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。外陣は板敷きで、天井は中央を化粧屋根裏、左右を格天井とする。その奥は中央の間口5間、奥行4間を内陣とし、その東西の各間口2間分は、東を宰堂室、西を集会所等とする。内陣は石敷き、格天井とし、その中央を2間四方を本尊を安置する内々陣とする。内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっている。
本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、平成16年(2004)12月、国宝に指定された。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっている。


本尊 十一面観音菩薩立像
 木造 像高1,018.0cm
重要文化財 室町時代 本堂
長谷寺のご本尊さまは、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。
開山徳道上人が造立して以来、度重なる火災により再造を繰り返してきました。
現在の御尊像は、室町時代の天文七年(1538)に大仏師運宗らによって造立されました。
像高3丈3尺6寸(1018.0cm)。我が国で最も大きな木造の仏さまで、その堂々としたお姿には全国に広がる長谷信仰の根本仏像としての威厳を十分に伺わせます。
 長谷寺の本尊像については、神亀年間(720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思われる。現在の本尊像は天文7年(1538)の再興。仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが、10mを超える巨像を破綻なくまとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。この種の錫杖を持った十一面観音を「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼称する。

裏観音
 長谷寺式十一面観音菩薩立像 俗に裏観音と云う。本尊と背中合わせに安置されているので裏観音と呼ばれる。かっては本尊開帳以外の日に参詣するとこの観音様に参詣したと云う。玉眼、漆箔が美しい。本尊同様錫杖を持ち、方形の盤石の上に立つ。木造 像高172.2Cm 江戸時代作

雨宝童子立像
木造 像高116.0cm
重要文化財 室町時代 本堂
本尊に向かって左脇侍。初瀬山を守護する八大童子のひとり、また天照大神としても信仰されております。
頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏っています。
天文6年(1537)から7年にかけて大仏師運宗らによって本尊と共に造立され、像内には多くの納入品が納められていました。
宝冠をかぶり、右手に宝棒、左手に宝珠を持つ。髪は角髪に結い、りりしい顔つきの少年の姿にあらわされる。赤精童子とも呼ばれる、初瀬山を守護する八大童子の一人である。天文7年(1538)本尊再興時に共に造立された。

難陀龍王立像
 木造 像高167.7cm
重要文化財 鎌倉時代 本堂
本尊に向かって右脇侍。本尊造立の際に影向した八大龍王のひとり、また春日明神としても信仰されております。
頭上に龍を頂き、唐冠を被った老貌で中国風の服を着ています。
正和5年(1316)に大仏師舜慶らによって造立されました。
明応4年(1494)、天文5年(1536)の火災を免れ、像内には多くの納入品が納められていました。
 中国風の衣装と冠を付け、頭上に龍をいただく。手には五つの獣頭形がつく岩を載せた盤を捧げ持ちます。本尊造立の際に現れたと云う八大竜王の一人。
雨をつかさどる水神であります。正和5年(1316)造立、像内には鏡や法華経等多くの納入品が納められていた。

不動明王坐像
 重要文化財
平安時代 (宗宝蔵)
右手に宝剣を握り、左手に羂索を執って坐っています。頭髪は弁髪として左肩に垂らし、左目を眇めて牙を上下に出しています。
台座と光背は室町時代の再造ですが、像容は古様を表わし衣文も粗く刻まれており、寺伝には天台宗の智証大師円珍の作と伝えています。
 真言宗豊山派総本山長谷寺には密教関係の仏像も多く、この不動明王もその一つである。弁髪を左肩に垂らし、左手に羂索を持ち、右手に宝剣を執る。
左目を細めた天地眼で歯牙を上下にむきだす。穏やかな作風は平安時代の特徴を見せる。

銅造十一面観音菩薩立像
 銅造 造高70.9cm
重要文化財 鎌倉時代(宗宝蔵)
右手に錫杖、左手に水瓶を持った十一面観世音菩薩像です。 寄木造の法を模して各部を別鋳で組上げています。
やや吊り上がった目に張りのある顔容は特異ですが、宝相華唐草文様を透彫りした光背の意匠は見事です。鍍金もよく残り鎌倉時代の金銅仏として大作です。
 右手を垂下して錫杖を持つ長谷寺式十一面観音。現在の本尊は指先を曲げて錫杖を執るが、本像では五指を伸ばした手に錫杖を添える。
この形式は今は失われた根本本尊に近い、古式の形を示すと考えられている。
 光背にはみごとなすかし彫りがほどこされ、光背から台座まで全て銅で作られており鎌倉時代の金銅仏の例としても貴重である。

西国33所 御詠歌ご朱印













コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング