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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良 19番 当麻寺

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近世では珍しい2宗兼学の寺で、この寺は牡丹の花で名をとどろかせているので5月牡丹の花が咲くころが最も賑わいを見せる寺でもあります。
奈良県、鎮護の道
(32)二上山 禅林寺
當麻寺(たいまでら)
住 所 〠 639―0276 奈良県葛城市當麻1263 中之坊
電話番号 電話 0745―48―2001 中乃坊
本  尊 当麻曼荼羅
開 山 (伝)麻呂古王
創  建 (伝)推古天皇20年(612)
アクセス 近鉄南大阪線当麻寺駅下車 徒歩15分 標識あり
<寺歴・縁起> H/P http://www.taimadera.org/(中乃坊)
           http://www.taimadera.or.jp/(奥院)
高野山真言宗(中乃坊)浄土宗(奥院)新西国33所11番
関西花の寺25霊場21番(西南院) 仏塔古寺18尊第8番(西南院)
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西山国師14番(奥院)法然上人25霊跡第9番(奥院)
神仏霊場 巡拝の道 第32番

當麻寺は中乃坊と奥院に別れた2宗兼学の寺であります。
拝観順序として門前より中乃坊からお詣りするか檀家さんは各、奥院や中乃坊さんにお詣りされると思います。まずは中乃坊さんから
當麻寺は白鳳時代(今から1300年以上前)に創建された古刹(こさつ)です。この當麻寺が成立した開山についての話、そして當麻寺に縁の深い二人の僧「中将姫さま」「弘法大師さま」のお話などを紹介しましょう。
推古天皇20年(612)聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。その後、親王の夢に従って、681年、当麻国見(たいまのくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(当麻寺、たいまでら)です。
 金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。
 中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。その他、平安期には40余房、
江戸期にも31房の僧坊があったということです。
 當麻寺がある奈良県葛城市当麻地区(旧、北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にある。この地にある二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山、三輪山(桜井市)と相対する位置にある。
二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。二上山の南を通る竹内(たけのうち)街道は、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。
平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。また、当麻の地は折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。
当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族「当麻氏」の氏寺として建てられたものである。寺には仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(7世紀後半)にさかのぼる遺物があり、寺の草創はこのころと推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族「当麻氏」の氏寺として建てられたものである。寺には仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(7世紀後半)にさかのぼる遺物があり、寺の草創はこのころと推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
当麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になって、ようやく各種書物や記録に草創縁起が見られるようになる。その早い例は、12世紀末、鎌倉時代初期の建久2年(1191)に成立した『建久御巡礼記』という書物である。
これは、興福寺の僧、実叡が大和の著名寺社を巡礼した際の記録である。
當麻寺について同書には、聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したものであり、その孫の当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだ、とある。
一方、『上宮太子拾遺記』(嘉禎3年、1237年)所引の『当麻寺縁起』によれば、當麻寺は推古天皇20年(612)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、当初は今の當麻寺の南方の味曽路という場所にあり、692年に現在地に移築されたとする。なお、万宝蔵院の旧所在地については
河内国山田郷(大阪府交野市あたり)とする史料もある。
平安時代末期、いわゆる末法思想の普及に伴って、来世に阿弥陀如来の西方極楽浄土に生まれ変わろうとする信仰が広がり、阿弥陀堂が盛んに建立された。この頃から當麻寺は阿弥陀如来の浄土を描いた「当麻曼荼羅」を安置する寺として信仰を集めるようになる。中でも浄土宗西山派の祖、証空は、貞応2年(1223)に『当麻曼荼羅註』を著し、当麻曼荼羅の写しを十数本制作し諸国に安置して、当麻曼荼羅の普及に貢献した。
 当麻曼荼羅と中将姫伝説
天平時代、藤原家の娘中将姫(ちゅうじょうひめ)は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、あえて恨むことなく、万民の安らぎを願い「写経」や「読経」を続けました。そして1000巻の写経を成し遂げた16才のある日、二上山に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見た姫は、現世の浄土を求めて都を離れ、観音さまに手を引かれるように當麻寺を訪れます。当時の住職、實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧となり、法如(ほうにょ)という名を授かります。その後、あの日に見た阿弥陀さまのおられる極楽浄土の光景を、五色の蓮の糸によって織り表しました。これが国宝、當麻曼荼羅(たいままんだら)です。その輝きに心を救われた法如は、人々に現世浄土の教え(この世で浄土を観じる教え)を説き続け、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。
 「当麻曼荼羅」は、学術的には「阿弥陀浄土変相図」と称するもので(「変相」とは浄土のありさまを絵画や彫刻として視覚化したもの)、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土のありさまを描いたものであり、唐の高僧、善導による『観無量寿経』の解釈書『観経四帖疏』に基づいて作画されたものとされている。
當麻寺本堂(曼荼羅堂)に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。先述の『建久御巡礼記』によれば、当麻曼荼羅はヨコハギ(横佩)大納言という人物の娘の願により化人(けにん、観音菩薩の化身か)が一夜で織り上げたものであり、それは天平宝字7年(763年)のことであったという。12世紀末のこの時点では「中将姫」という名はまだ登場していない。13世紀半ばの『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう)ではヨコハギ大納言の名は藤原豊成とされており、以降、父の名は右大臣藤原豊成、娘の名は中将姫として定着していく。
 當麻寺は当初、奈良仏教の源流である三論宗を奉じていました。
これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでしたが、
弘仁期に弘法大師さまに教えを授かり、真言宗に改宗しました。
「空」の境地を通して得た智慧を生かし、現世に浄土の実現を目指す教えで、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。
 しかし時代が下り南北朝時代になると、曼荼羅信仰の機運に乗じて、京都知恩院が當麻寺の境内に往生院(現、奥院)を創建し、200余名の僧らと共に、
浄土宗の教えを持ち込みました。そして當麻曼荼羅を布教材料として専修念仏の教えを広めていきました。
 やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになりました。現在でも、「二宗兼宗」として、伽藍の諸堂のうち曼荼羅堂だけは真言、浄土の2宗によって勤行が執り行われる極めて珍しい形をとっています。
 曼荼羅堂以外のお堂(金堂、講堂など)での法会は真言宗のみで行われています。

本堂           当麻曼荼羅
本堂(曼荼羅堂・まんだらどう)国宝 天平時代−藤原時代
中将姫(ちゅうじょうひめ)の當麻曼荼羅(たいままんだら)を本尊としてお祀りする堂。本尊、當麻曼荼羅(室町時代・重文)が見事な厨子(天平時代、国宝)に収められています。

仁王門
左右の仁王様がお出迎えされます。現世との結界で境内は俗世から切り離された環境維持に努めなければなりません。当然タバコや酒は当たり前でしょう。
金堂 重文 鎌倉時代
金堂(こんどう)は當麻寺本来の中心のお堂。
日本最古の塑像、弥勒仏(白鳳時代・国宝)を本尊とし、日本最古の乾漆・四天王(白鳳時代・重文)が四方を守護しています。

弥勒仏坐像              金堂
講堂 重文 鎌倉時代  
本尊は丈六の阿弥陀如来で藤原期の仏像(重文)。その他、珍しい妙幢菩薩(みょうどうぼさつ 弘仁時代・重文)や、地蔵菩薩(藤原・重文)など、おもに平安時代の仏像が祀られます。

講堂内陣(中心に阿弥陀仏、妙幢菩薩、地蔵菩薩等安置)
東塔、西塔(国宝)
いずれも三重塔である。東塔は初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重、三重を2間とする特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例)。 
これに対し、西塔は初重、二重、三重とも柱間を3間とする。また、屋根上の水煙(すいえん)という装飾のデザインを見ると、西塔のそれはオーソドックスなものだが、東塔の水煙は魚の骨のような形をした、変わったデザインのものである(ただし、創建当初のものではないらしい)。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期。

西塔
西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定される。
東西の塔にデザインや建築時期の違いは若干あるものの、近世以前の東西両塔が現存する日本唯一の例として、きわめて貴重なものである。
當麻寺奥院
當麻寺塔頭奥院は、浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立された寺で、最初は往生院と呼ばれていました。知恩院第12代誓阿普観上人が知恩院の御本尊として安置されていた法然上人像(重文)を後光厳天皇の勅許を得て応安3年(1370)当地に還座して建立した寺で、以来、浄土宗の大和本山として多くの人々の信仰を集め今日まで護持継承されて来た名刹です。
本堂(重文)、大方丈(重文)、楼門(重文)、阿弥陀堂、庫裡等、今に残る伽藍に往古の宗教活動の偉大さがうかがわれます。
お念仏の元祖法然上人を偲び、御誕生から御入滅までの御遺跡地である25霊場を巡拝します。當麻寺は天平の昔、中将姫が蓮糸で織ったと言われる浄土曼陀羅で名高く、法然上人がこの曼陀羅を拝し称名念仏を修せられた霊場です。
知恩院第12世誓阿上人は、京都は災禍も多く安住の地で無いとし、応安3年(1370)朝廷に奏上し、法然上人の尊像と勅修御伝の副本を当寺に移されました。なおこの尊像は法然上人自ら48度開眼されたものであり、
誓阿上人の夢告の「血垂れの御影」として有名です。
法然上人の弟子、証空上人の御遺跡地である16霊場を巡拝します。西山国師と称され西山浄土宗の祖、當麻曼陀羅を全国に布教された僧侶です。
奥院は法然上人25霊跡、西山国師札所となっております。

當麻曼荼羅(平安時代)
 當麻寺の本尊。観経浄土変相図のことで、天平宝字七年、中将姫が感得し蓮糸を染めて織り上げたという貴い物語が伝えられています。図相は西方極楽浄土の壮麗さを表わしたもので、浄土三部経の一つに観無量寿経に説かれた韋提希夫人の物語に阿弥陀十六想観と九品往生の姿を周縁三方に区画して展開し、中央にその時感得した極楽浄土の有様を現わしたもので、多くの人々に浄土信仰への道を開きました。

25菩薩来迎図
私達を極楽浄土に迎えて下さる二十五菩薩の来迎の姿。

神仏霊場 ご朱印

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