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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良 17番 朝護孫子寺

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学校で習ったり近年は漫画のルーツとも云われる信貴山縁起絵巻物で名が挙がった寺です。
奈良県、鎮護の道
(30)信貴山
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)
住 所 〠 636―0923 奈良県生駒郡平群町信貴山2280―1
電話番号 電話 0745―72―2277
本  尊 毘沙門天
開 山 (伝)聖徳太子
創  建 不詳
アクセス JR奈良線王子駅乗り換え近鉄信貴山下下車バス10分下車
     近鉄奈良線生駒駅下車乗換近鉄信貴山下下車バス
<寺歴・縁起> H/P http://www.sigisan.or.jp/
信貴山真言宗総本山 大和七福神 真言宗18本山14番
聖徳太子霊跡20番 役行者霊蹟札所 大和13仏霊場11番(玉蔵院)
神仏霊場 巡拝の道 第30番

 朝護孫子寺は、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境にそびえる生駒山地の南端に近い、奈良県側の信貴山の山腹に位置する。創建の時期や経緯については判然としない。
寺に伝わる国宝『信貴山縁起絵巻』は、平安時代後期、12世紀の成立とされ、日本の絵巻物の代表作とされている。この絵巻は通常の社寺縁起絵とは異なって、朝護孫子寺の創建の経緯等については何も述べておらず、信貴山で修行していた命蓮(みょうれん)という聖(ひじり)の奇跡譚が中心主題となっている。絵巻の中巻では延喜の帝(醍醐天皇)の病を命蓮が法力で治したという話が語られている。
『信貴山縁起絵巻』の詞書とほぼ同様の説話が『宇治拾遺物語』にあり、『今昔物語』にも信貴山寺の草創に関する説話が収録されている。(聖の名は『宇治拾遺物語』には「もうれん」、『今昔物語』には「明練」とある。)
平安時代末期に成立した歴史書『扶桑略記』の延長8年(930)8月19日条には、「河内国志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが見える。なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。
なお、信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には
「河内の信貴(志貴)」と表現されている。以上のことから、醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。
伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、推古2年(594)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。また寺の至る所に虎の張り子が置かれているのは、その逸話に由来している。その後、延喜2年(902)に醍醐天皇が、「朝廟安穏、守護国土、子孫長久」の祈願寺としたことから、「朝護孫子寺」の勅号を賜った。
戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。天正5年(1577)に同城の城主、松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も消失するが、豊臣秀頼によって再建された。
現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している。

本堂
 大般若祈祷が毎日行なわれている本堂は、文禄年中(1592)豊臣秀吉により再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。昭和26年に漏電による火災で焼失、昭和33年に現在の本堂を再建し、今日に至ります。舞台造りとなっており、そこからは大和平野が一望でき、素晴らしい眺めとなっています。

本堂に続く階段 奥に見えるのが本堂

戒壇めぐり
 覚鑁上人が850年前、当山において唯一納めたという如意宝珠がお祀りされています。心願成就のご利益が大変あらたかです。是非ご入壇ください。

毘沙門天王
 毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁盛、金運如意、開運招福、心願成就の得を最も厚く授けてくださる福の神です。信貴山毘沙門天王の、ご尊体に鎧兜を召されておられるのは、世の中のあらゆる、邪魔者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神で何事も行なえということを教えておられるのです。また、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です。

経蔵堂
 当山の経蔵堂は、中央に回転できる経厨子があり、中に仏教のあらゆる法門の経典を集めた「一切経」を納めてあります。その経厨子は、一回転させる毎に「一切経」をすべて読誦したのと同じ功徳があると言われています。
皆様も、家内安全、身体健全、商売繁盛などの諸願成就を念じ、経厨子を右廻りに回してその功徳を授かって頂くことをお勧めいたします。また四面の壁面上部の彫刻は、印度から中国、日本への仏教の伝来の様子が説明してあり、一見の価値があります。

虚空蔵堂
 虚空蔵菩薩を安置しています。虚空蔵菩薩は弘法大師・空海が青年時代に修行された「虚空蔵求聞持法」の本尊で宇宙全体に満ちている仏様の無量無尽の知恵や功徳を蔵する菩薩です。特に「入試合格」「学業成就」に霊験顕たかな菩薩です。

赤門
 寛政5年(1793)7月に再建いたしました。平成21年5月に塗り替えられ、美しい姿を現しています。

剱鎧護法堂
 今から1500年前、醍醐天皇が重い病にかかられた時、命蓮上人が勅命により毘沙門天王に病気平癒の祈願をされました。数日後、加持満願の日、剱鎧護法の使者が天皇の枕元に出現されて、霊感を授けられると忽ち天皇の病は癒され心安らかになられました。そこで、この地に剱鎧護法を当病平癒の守り本尊として、祀られ日夜勤行されました。以来、無病息災、病気全快の霊験あらたかな神として篤く信仰されています。

本坊
  桁行11間、梁行3間。安政年間(1854〜1860)大阪堂島の木綿屋梅蔵が寄進したものです。平成9年(1997)に改修しました。隣接して護摩堂があります。建物入口には、張り子の寅が置かれています。また、傍らには、信貴山真華流の花塚があります。信貴山真華流は、昭和26年に創流

三宝荒神堂
 中尊に悪魔をこらしめる為にこわい顔をして、人々を守る明王「不動明王」を安置。右にすべての人々を救う西方極楽浄土の仏様「阿弥陀如来」、左に仏教の守護神かまどの神様「三宝荒神」を祀っております。殊に三宝荒神は、火難水難除けの台所の神様「三宝(さんぼう)さん」として親しまれお祀りされています。

開山堂
 享保17年(1722)建立。願主は河内国本堂村教心坊(盲人)他2名。信貴山開祖 聖徳太子、宗祖 弘法大師、中興開山 命蓮上人 歓算上人、四国八十八ヶ所ご本尊さまをお祀りしているお堂です。八十八カ所各寺のお砂も敷いております。お砂踏みめぐりをされ、心洗われる仏縁のひとときをお過ごしください。開山堂の厄除ローソクは、白:息災(除災招福・当病平癒・交通安全等)、黄:増益(開運招福・学業成就・商売繁盛等)、白+黄で「開運厄除け」になります。

 大和国信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった霊地で、毘沙門天王の総本山です。
本堂は文禄年中(1592)豊臣秀吉の再建、または慶長7年(1602)秀頼の再建とする説があり、定かではありません。後に修復を加え、延享3年(1746)に完成しました。然るに、昭和26年(1951)不慮の火災で焼失し、同33年(1958)に再建、現在に至っております。
 毘沙門天王は七福神のなかでも福随一といわれ、全国の人々にひろく信仰されており、家内安全・商売繁盛・開運長久・心願成就の大般若祈祷が毎日行なわれています。
本堂の地下には「戒壇巡り」を設け、覚鑁上人が850年前当山に唯一つ納められた如意宝珠という宝の珠を奉安しております。心願成就のご利益が大変あらたかです。ぜひご入壇ください。



 この絵巻物は当山の中興、開山命蓮上人に関する物語を描いたもので、「飛倉の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の三巻からなっています。
平安後期の作で、4大国宝絵巻の一つに数えられている有名な絵巻です。軽妙的確な筆で人物の躍動感や表情をうまくとらえ、風景描写にも優れ、劇的な表現を使ったのはこの絵巻が最初であり、その構成の巧みさは実にみごとです。鳥羽僧正覚猷筆と伝えられています。

真言宗18本山 ご朱印


                         神仏霊場 ご朱印


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