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古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良14番 中宮寺

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中宮寺は法隆寺境内から行ける距離にある寺で曼荼羅でも有名であります
奈良県、鎮護の道
(27)法興山 
中宮寺門跡(ちゅうぐうじもんぜき)
住 所 〠 636―0111 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1―1―2
電話番号 電話 0745―75―2106
本  尊 菩薩半跏像(伝)如意輪観音
開 山 (伝)聖徳太子
創  建 7世紀前半、一説に推古天皇15年(607)
アクセス JR奈良線 法隆寺駅下車 徒歩20分 法隆寺境内隣り
<寺歴・縁起> H/P http://www.chuguji.jp/
聖徳宗(総本山 法隆寺)聖徳太子霊跡15番 中部尼寺巡り15番
神仏霊場 巡拝の道 第27番

 中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。
その旧地は、現中宮寺の東方3丁の所に土壇として残っておりましたのを、発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王式であるのに応ずるものといえましょう。而もその出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)はその金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、その講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
 その後、平安時代には寺運衰退して、僅かに草堂一宇を残して本尊様のみ居ますといった状態でありましたのを、鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺法蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りません。
 ところが、戦国時代に入って火災に会い、法隆寺東院の山内子院に避難し、そのまま住み着いていたところ、後伏見天皇8世の皇孫尊智女王(慶長7年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡として、次第に寺観を整えたのが今の中宮寺であります。
 宗派は戦後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和3門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。
 創建の飛鳥時代このかた1300年の長きに亘り、尼寺の法燈を続けておるのは日本広しと云えども実に中宮寺だけであります。
菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)
東洋美術における「考える像」で有名な、思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める作品であります。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の3つの微笑像」とも呼ばれております。
 半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。
斑鳩の里に伝統1300余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。

菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)
 本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm(左脚を除く坐高は87.0cm)。広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。
寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。
両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。本像の文献上の初出は建治元年(1275年)、定円の『太子曼荼羅講式』で、同書に「本尊救世観音」とあるのが本像にあたると考えられている。それ以前の伝来は不明である。現状は全身が黒ずんでいるが、足の裏などにわずかに残る痕跡から、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。

本堂
 本堂は高松宮妃の発願で昭和43年(1968)に建立した和風の現代建築で本尊の菩薩半跏像をお祀りしています。
 天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)
日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、推古天皇30年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、図像をつくって太子往生の姿をお偲びしたいと、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国のありさまを刺繍せしめられたものです。
 もとは繍帳二帳よりなり、そこには100個の亀甲が刺繍され、亀の甲には一個に4字ずつ、都合400文字で繍帳造顕の由来が示されていました。
幸いその銘文の全文が『上宮聖徳法王帝説』という本に書き留められており、それによりますと、絵を描いたのは東漢末賢、高麗加世○、漢奴加己利、これを監督したのは椋部秦久麻でした。
 年を経るにつれて曼荼羅は破損し、現存するものは往時のほんの一部にすぎませんが、紫羅の上に、白、赤、黄、青、緑、紫、樺色などのより糸をもって伏縫の刺繍が施された繍帳は、今なお目覚めるように鮮麗な色彩を残しており、7世紀中葉の染色技術、服装、仏教信仰などを知るうえでまことに尊い貴重な遺品といえましょう。
(現在、本堂に安置されているものはレプリカで、実物は奈良国立博物館に寄託されております。)


天寿国繍帳残闕
 「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すものと考証されている。「天寿国繍帳」とは、「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意である。古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4mほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせて額装仕立てとしたものである。
現存の天寿国繍帳の大きさは縦88.8Cm、横82.7Cm。このほかに断片2点が別途保存されている。
明治30年(1897)12月28日、古社寺保存法に基づき「天寿国曼荼羅図刺繍掛幅」の名称で当時の国宝(旧国宝)に指定された。断片2点については大正10年(1921)4月30日、別途旧国宝に指定された。その後、昭和27年(1952)3月29日、「天寿国繍帳残闕 一帳 附同残片二」(てんじゅこくしゅうちょうざんけつ 1ちょう つけたり どうざんぺん2)という名称で、文化財保護法に基づく国宝に指定された。
上宮聖徳法王帝説(明治大学文学部ゼミ資料より一部抜粋)
上宮聖徳法王帝説
 斯歸斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支
(しきしまの宮(磯城嶋宮)に天の下治らしめしし天皇(すめらみこと)、名は あめくにおしはるき
比里爾波 乃弥己等  娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女
ひろにはのみこと(天國排開廣庭尊=欽明天皇)、そが(蘇我)の大臣いなめ(稲目)の足尼(すくね/宿禰)がむすめ
名吉多斯 比弥乃弥 己等爲大 后生名多 至波奈等
名は きたしひめのみこと(堅鹽媛命)を娶りて大后(おおきさき)となし、名は たちばなと
 已比乃弥 己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥
 よひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)・妹(いも)名は とよみけかしきやひめのみ
 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等爲 后生名孔
 こと(豐御食炊屋姫尊=推古天皇)を生みたまいき。また大后が弟(おと)名は おあねのみこと(小姉命)を后となし、名は あな
 部間人公 主斯歸斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布
 ほべはしひとのひめみこ(穴穂部泥部皇女)を生みたまいき。しきしまの天皇が御子、名は ぬなくらのふ
 等多麻斯 支乃弥己 等娶庶妹 名等已弥 居加斯支
 とたましきのみこと(渟中倉太珠敷尊=敏達天皇)、庶妹(ままいも)名は とよみけかしき
 移比弥乃 弥己等爲 大后坐乎 沙多宮治 天下生名
やひめのみこと を娶りて大后となし、おさたの宮(譯田宮/他田宮)に坐(いま)して天の下治らしめしき。名は
 尾治王多 至波奈等 已比乃弥  己等娶庶 妹名孔部
 尾治王(おはりのみこ)を生みたまいき。たちばなとよひのみこと(橘豐日尊=用明天皇)、庶妹(ままいも)名は あなほべ
 間人公主 爲大后坐 瀆邊宮治 天下生名 等已乃弥
 はしひとのひめみこ を娶りて大后となし、いけのべの宮(池邊宮)に坐しまして天の下治しめしき。名は とよのみ
 弥乃弥己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎
 みのみこと(豐聰耳皇子=聖徳太子)を生みたまいき。尾治王がむすめ、名はたちばなの大女郎(おおいらつめ)を娶りて
 爲后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入母 孔部間人
 后となしたまう。歳(ほし)辛巳(かのと・み)にありし12月21(日)癸酉(みずのと・とり)の日のくれに母の孔部間人
 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩  于時多至
 王(あなほべのはしひとのみこ)崩(かむざ)りましぬ。明くる年の2月22日甲戌(きのえ・いぬ)の夜半に太子崩りましき。時にたち
 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰敬 之雖恐懐
 ばなの大女郎、悲哀(かなしび)嘆息(なげき)して白(もう)さく「畏(かしこ)き天皇が前に曰(い)いて敬(もう)すはこれ恐れありといえども、懐(おも)う
 

心難止使 我大皇與 母王如期 從遊痛酷 无比我大
 心止(や)みがたし。わが大皇(おおきみ)と母王(ははのみこ)と期(ちぎ)りしが如く從遊(じゅゆ)せしめたまう。痛く酷(から)きこと比ぶる無し。わが大
 王所告世  間虚假唯 仏是真玩 味其法謂 我大王應
 王の告げたまいしく『世間は虚假(こけ)にして、ただ仏のみこれ真なり』と。その法(のり)を玩味(あじわ)うに、わが大王は
 生於天壽 國之中而 彼國之形 眼所叵看 悕因圖像
 天寿國の中に生れたまうべしと謂(おも)えり。而(しか)るに彼の國の形は眼に看(み)叵(かた)き所なり。悕(ねが)わくは図像によりて
 欲觀大王 往生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子
 大王が往生したまう状(かたち)を觀(み)んと欲(おも)う」と。天皇これを聞こしめして悽然として告げて曰く「わが子ひとり有り。
 所啓誠以 爲然勅諸 采女等造 繍帷二張 畫者東漢
 啓(もう)す所は誠に然なりと以爲(おも)う」と。勅して諸の釆女(うねめ)らに繍帳二張を造らしむ。畫(えが)ける者は東漢(やまとのあや)の
 末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻
 末賢(めけ)、高麗(こま)の加西溢(かせい)、また漢(あや)の奴加己利(ぬかこり)。令者(つかさひと)は椋部(くらひとべ)の秦久麻(はたのくま)なり。
 このように破損したものの銘文がなぜ復元できているかというと、いくつかの写本が残っており、また『天寿國曼荼羅繍帳縁起勘点文』、『中宮寺尼信如起請等事』、『法隆寺東院縁起』、『天寿國曼荼羅起因』、『斑鳩古事便覧』、『聖徳太子伝正法論』などに引用があるからである。
また「上宮聖徳法王帝説」が「右は法隆寺の蔵に在る繍帳二張、縫い著けし龜の背の上の文字なり」としてその全文を記録している。ただし「上宮聖徳法王帝説」が記す銘文は写しもれや書写の間違いなどで、本来400字であるはずの銘文が398字になっている。
 この銘文には「わが国で『天皇』という称号がいつ成立したか」という問題が内在している。そもそも天皇という語の由来には主に下記の3説がある。
1)中国で宇宙の主宰神とされる昊天上帝の別名、『天皇大帝』に由来するという説。
2)中国で宇宙の主宰神とされる昊天上帝の別名、『天皇大帝』に由来するという説。
3) 大王の権威を増すために『大』→『天』・『王』→『皇』という具合にそれぞれの文字の画数を増して出来上がった日本で作られた漢語であるとする説。
次に天皇号の成立時期だが、これには2説あり、ひとつは推古朝とする説、ひとつは天武、持統朝のころとする説である。
現在では天武、持統朝のころすなわち7世紀後半とする説が有力である。
その根拠となるのは唐の第3代皇帝の高宗が674年(天武3年)に皇帝に代えて天皇の称号を用いた事実があり、その影響によるものとされる。
またこの時期の日本では律令の制定とともに『古事記』、『日本書紀」などの国史編纂が始まり、これらと連動して従来の倭国を日本国と称するようになり、また従来の大王が天皇となったとするものである。
 天寿國繍帳は聖徳太子の后であった橘大郎女(推古天皇の息子である尾張皇子の娘。つまり推古からみれば孫娘にあたる)の願いにより作成された。銘文の内容をみると、この繍帳は橘大郎女が彼女の亡き夫をしのぶよすがとして、彼女の身近におかれて使用されたはずである。そうであれば太子の系譜を述べ、繍帳作成の経緯を述べる銘文が橘大郎女にとって必要なものであったかどうか検討してみる必要がある。彼女にとってこのような銘文は必要なものではなかったと見るのが自然であろう。したがって繍帳自体は推古朝に作成されたものとしても、作成当初の繍帳には銘文の刺繍は無く、後の時代に追加して縫いつけられたものである可能性は否定できない。

平成18年3月14日発行 東京国立博物館 編集・発行
「国宝 天寿國繍帳」の表紙より

表御殿
江戸時代後期建立の書院造。登録有形文化財。

神仏霊場 ご朱印


                          寺銘額

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