ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良11番 唐招提寺

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
修学旅行生が奈良に行くと必ず訪れる寺院の一つであまりにも有名な寺院でもあり又うちわまきは季節の風物詩としてテレビなどで紹介されている寺院です。
奈良県、鎮護の道
(24)南都六宗
唐招提寺(とうしょうだいじ)
住 所 〠 630―8032 奈良市五条町13―46
電話番号 電話 0742―33―7900
本  尊 廬舎那仏(国宝)
開 山 鑑真  中興 覚盛
創  建 天平宝字3年(759) 中興 寛元2年(1244)
アクセス 近鉄大和西大寺駅乗り換え橿原線西の京駅下車 徒歩10分
<寺歴・縁起> H/P http://www.toshodaiji.jp/
律宗総本山 神仏霊場 巡拝の道第24番

 唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、
天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。
現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。
 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧、鑑真が天平宝字3年(759)、
新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
 鑑真大和上、(唐招提寺では教科書等に出てくる鑑真和上ではなく、和上の上に大を付けるそうです。)
鑑真大和上は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき
「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。

鑑真大和上像
こうした中、天平5年(733)、遣唐使とともに渡唐した普照と栄叡(ようえい)という留学僧がいた。彼らが揚州(現、江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。
普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子たちは渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子たちのうちに渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命がけであったうえに、唐ですでに高僧として名の高かった鑑真の出国には反対する勢力もあった。
そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動をともにしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時すでに66歳になっていた。
遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。
同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76歳であった。

金堂
国宝 奈良時代(8世紀後半)
寄棟造・本瓦葺
 南大門をくぐった正面にその荘厳な姿を見せる金堂は、8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物です。
外観は、正面間口7間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面1間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示しています。
屋根西側の鴟尾(しび)は、創建当初のものですが、今回の修理を機に平成の鴟尾に代えられることが決まっています。
堂内は、連子窓から取り入れられた柔らかな光に満たされ、中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれています。

乾漆廬舎那仏坐像
乾漆廬舎那仏坐像
国宝 奈良時代(8世紀)
脱活乾漆 漆箔
 金堂の本尊で高さは、3mを超え、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像です。奈良時代に盛んに用いられた脱活乾漆造でその造形は雄大さとやわらかさを併せ持ち、唐代の仏像に通じる唐招提寺のご本尊にふさわしい仏像です。
また、背後の光背の化仏の数は、864体ありますが、本来は1000体であったといわれています。
 廬舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』(5世紀頃中国で成立)の主尊である。像は千仏光背を負い、蓮華座上に坐す。麻布を漆で貼り固めて造形した脱活乾漆像である。唐招提寺は私寺であるが、本像は制作に手間のかかる脱活乾漆像であることから、造東大寺司の工人による作と推定されている。(一説には、東大寺法華堂の旧本尊。)光背の千仏は864体が残る。

木心乾漆薬師如来立像
国宝 平安時代(9世紀)
木心乾漆 漆箔
 本尊、盧舎那仏坐像に向かって右側に安置される立像で、高さ3.36mです。
本尊、千手観音像にやや遅れる平安時代初期に完成したと考えられます。伏目がちな表情などから全体的に重厚な印象がある仏像です。
昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代からも平安初期の完成であることが明らかになっています。
修理時に左の掌の内側に3枚の古銭が納入されているのが発見され、そのうち最も年代の下る隆平永宝が延暦15年(796)以降の鋳造であることから、本像の制作もそれ以降、つまり平安京遷都後となる。光背はこの像のものとしては幅が広すぎ、他の像の光背を転用したものと推定されている。

木心乾漆千手観音立像
 国宝 奈良時代(8世紀)
木心乾漆 漆箔
本尊、盧舎那仏坐像に向かって左側に安置される高さ5.36mの立像。
大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕は、バランスよく配され不自然さを感じさせません。また、本来は1000本あったと考えられています。
全体的にのびやかな印象と、すずし気な目鼻立ちが印象的です。
本像は実際に1,000本の手を表した例で、大手42本の間に小手をびっしりと植え付ける。現状は大手42本、小手911本、計953本であるが、制作当初は計1,000本の手を有したものと思われる。

梵天、帝釈天立像
梵天、帝釈天立像
国宝 奈良時代(8世紀)
木造・乾漆併用 彩色
本来は、金堂本尊、盧舎那仏坐像の左右に安置されていたもので向かって右に梵天、左が帝釈天です。古代インドの護法神で、一対で造像されることが多い仏像です。
両像とも鎧の上に裳(も)をまとい、沓(くつ)を履き、梵天は、さらに袈裟をつけた姿となっています。
大らかな作りの表情は、柔和な印象をたたえています
四天王立像
国宝 奈良時代(8世紀)
木造・乾漆併用 彩色
四天王は仏教世界を護る護法神です。
本来は金堂の須弥壇の四隅に安置され、梵天・帝釈天立像と同時期、同一工房の作と考えられています。
四像とも丸みを帯びた顔は、やや平板な目鼻立ちながら重厚な表情で、体つきは全体に力強い印象を与えます。

持國天立像    増長天立像   広目天立像   多聞天立像
持國天立像
国宝 奈良時代(8世紀)
木造・乾漆併用 彩色
金堂の須弥壇の東南に位置する四天王の一つ で高さ1.85m。
甲冑で身を固め口をへの字に曲げて剣を構える姿は、まさしく武装神といった趣をかもし出しています。
増長天立像
国宝 奈良時代(8世紀)
木造・乾漆併用 彩色
金堂の須弥壇の西南に位置する四天王の一つで高さ1.87m。
口を大きく開いた表情に、振り上げた右手には鈷(こ)を持つ姿は、まさしく
魔物を威嚇する迫力があります。
広目天立像
国宝 奈良時代(8世紀)
木造・乾漆併用 彩色
金堂の須御壇の西北に位置する四天王の一つで高さ1.86m。
甲冑を身にまとい、右手に筆、左手に経文を持っています。表情は口を固く結び、静かな厳しさを感じさせます。
 多聞天立像
国宝 奈良時代(8世紀)
木造・乾漆併用 彩色
金堂の須御壇の東北に位置する四天王の一つで高さ1.88m。
右手に宝塔、左手に戟(げき)を持ち、引き締まった表情でたたずむその姿には、広目天像と同様に静かな厳しさを感じます。

講堂
 国宝 奈良時代(8世紀後半)
入母屋造・本瓦葺
 平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築・改造したもので、開放的な空間となっています。外観は平屋の入母屋造で、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きいといわれます。
 天平時代、平城宮の面影をとどめる唯一の建築物としてきわめて貴重な存在です。内部は、本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)の他、多くの仏像が安置されています。
天平宝字4年(760)頃、平城宮の改修に伴って移築された。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。
鎌倉時代の建治元年(1275)にも改造されているが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である。堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。昭和45年(1970)に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像を安置していた。

弥勒如来坐像
 重要文化財 鎌倉時代
木造
 講堂の本尊で、高さ2.84m。
構造は、寄木造りで、目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情で、この点からも鎌倉時代の典型的な仏像といえます。
膝裏には弘安10年(1287)の記があるが、『招提千歳伝記』によると開眼供養は5年後の正応5年(1292)である。

木造持国天立像
木造持国天立像
重要文化財 奈良時代(8世紀)
木造
増長天と比較して、体躯の動きは多少ぎこちないが、細かく彫刻された衣紋の精巧さ、緻密さは同時代の木造像としてはあまり類例がありません。
木造持国天立像と増長天立像とは像高はそれぞれ132.5及び128.2Cm。
甲(よろい)の文様の彫り口などに唐時代の石彫との類似が指摘され、鑑真とともに来朝した工人が制作に関与したと推定される。

増長天立像
 重要文化財 奈良時代(8世紀)
木造
創建当時にさかのぼると考えられる木彫像。
そのずんぐりとした力強い体型は、唐代の仏像を手本としていたもので、鑑真和上とともに来日した唐人の作といわれています。

礼堂(らいどう)
 重要文化財 鎌倉時代
木造 入母屋造・本瓦葺
鼓楼の東に位置する南北19間の細長い建物の南側8間が礼堂、北側10間が東室、その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路になっています。
講堂を挟んだ西側にも同様の建物があり、僧房として使われていました。
礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、内部に釈迦如来立像(重文)・日供舎利塔を安置しています。


釈迦如来立像
 重要文化財 正嘉2年(1258)
木造 厨子入
高さ約1.66mで、礼堂内の厨子に安置されています。縄状に結われた髪と、袈裟を通肩(つうけん)にまとった清涼寺式の釈迦像です。
像内部から百通あまりの造立に際しての結縁(けちえん)文書が見つかり、その造立の年が明らかになりました。

御影堂
 重要文化財 江戸時代
境内の北側に位置する土塀に囲まれ、ひっそりとした瀟洒な建物。元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和38年(1964)移築復元したものです。
現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、昭和46年から57年にかけて東山魁夷画伯が描かれた、鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められています。

鑑真和上坐像
 国宝 奈良時代(8世紀)
脱活乾漆(だっかつかんしつ) 彩色
高さ80.1cm。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する彫刻です。
鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作です。
脱活乾漆は麻布を漆で貼り合わせ整形を施す製法で内部は空洞となります。弟子の忍基(にんき)が制作を指導したとされ、今も鮮やかな彩色が残っています。

経堂
 国宝 奈良時代(8世紀)
校倉・寄棟造・本瓦葺
礼堂の東側に宝蔵とともに並んで建つ高床式の校倉(あぜくら)で、小さいほうが経蔵です。
唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれ、唐招提寺で最も古い建造物であり、日本最古の校倉です。


文殊五尊像
 南北朝時代(14世紀)
木造
 獅子に乗った文殊菩薩と善財童子(ぜんざいどうじ)、優でん王(うでんおう)、仏陀波利(ぶっだはり)、最勝老人(さいしょうろうじん)の4人の従者からなる菩薩が、仏教を中国から日本へと伝えようとする姿を描いた渡海文殊と呼ばれる像です。各像とも寄木造で、彩色・切金がよく残ります。修理の際に文殊像の頭部から「おんほとけ(御仏)のおんむかへ(御迎)にまいらせ候。そん(損)させたまひ候はぬやうに…(以下略)」と記された仏像引き取りのときに、使いに持たせた書状が発見されました。

新宝蔵
 唐招提寺が伝える 多くの文化財を管理・収蔵するために昭和45年(1970)に建てられた鉄筋コンクリートの収蔵展示施設です。
金堂に安置されていた木造大日如来坐像(重文)のほか、
旧講堂木彫群と呼ばれる、奈良時代末期に制作された多数の木彫像が収められ、通年で公開されています。

薬師如来立像
 重要文化財 奈良時代(8世紀)
木造
衆宝王菩薩立像(しゅうほうおうぼさつりゅうぞう)などと同様に、旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像。
頭部の漆製の螺髪と両手が失われていますが、唐風の作風の旧講堂木彫群の中でももっとも大らかでボリュームのある立体的な造形を持っています。
他の旧講堂の木彫が鼻を大きく欠きますが、この像はその形を残しているのが特徴です。

獅子吼菩薩立像
獅子吼菩薩立像
重要文化財 奈良時代(8世紀)
木造
薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう)などと同様に、旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像の一つです。
3目4臂(3つの目と4本の腕)の不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)として造られたもので、大らかな唐風の作風が特徴的な唐招提寺らしい像です。

衆宝王菩薩立像
 重要文化財 奈良時代(8世紀)
木造
 獅子吼菩薩立像(ししくぼさつりゅうぞう)などと同様に、旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像。鑑真和上自身が持つ菩薩像を具体化したものといわれています。
伝獅子吼菩薩立像同様に唐風の色彩が濃い一木彫成の像で、額に縦に一眼が刻まれ、左右の肩の付け根から3本づつ腕が伸びていたと思われ、元は不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)であったと考えられます。

十一面観音立像
 十一面観音立像
 重要文化財 奈良時代(8世紀)
木造
旧講堂に安置されていた奈良時代木彫群像の一つです。
体形や衣装など全体的に衆宝王菩薩立像(しゅうほうおうぼさつりゅうぞう)に近い表現が見られます。

如来形立像
 重要文化財 奈良時代(8世紀)
木心乾漆 漆箔
ほぼ等身大のカヤ材の一木彫成像。その独特の曲線によって形作られた美しい姿は、頭部および両手先を失っていることで「唐招提寺のトルソー」と呼ばれ、多くの芸術家・愛好家を魅了して来ました。
すらりと伸びた下半身や、胸や大腿部の滑らかな曲面は、唐招提寺の重厚な趣の他の彫像比べ独特の流麗さがあります。

開山御廟
 境内の北東の奥まった静かな場所に位置する鑑真和上の墓所。
同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えません。現在は御廟前に和上の故郷・揚州から贈られた瓊花が植えられ、初夏にその可憐な花を咲かせます。

南大門
 唐招提寺を訪れた人がまず目にする建造物。昭和35年(1960)に天平様式で再建されたもので、五間の中央に三扉とする、切妻造りの建物です。
現在掲げられている扁額は複製で、実物は講堂内に収蔵しております

神仏霊場 ご朱印


 唐招提寺中興忌梵網会と云う俗にうちわまき行事に使用されるうちわではなく観光客や修学旅行生におみやげとして売店で販売してるうちわであります。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。