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古寺巡礼コミュの神仏霊場150所 大阪は終わりました 次は奈良です 東大寺から

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奈良県は鎮護の道です。大和、斑鳩、吉野方面です。
奈良県、鎮護の道
(14)南都七大寺 金光明四天王護国之寺
東大寺(とうだいじ)
住 所 〠 630―8587 奈良市雑司町406―1
電話番号 電話 0742―22―5511
本  尊 盧舎那仏(国宝)
開 山 聖武天皇
創  建 8世紀前半
アクセス 近鉄奈良線終点奈良駅下車 徒歩20分
<神歴・縁起> H/P http://www.todaiji.or.jp/
華厳宗大本山 南都七大寺1番(大仏殿)法然上人25霊跡11番(指図堂)
神仏霊場 巡拝の道14番

奈良市内から東の方を見ると大きな屋根の建物が見える。それが東大寺金堂、大仏殿である。
東大寺の歴史は8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。
金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する
紫香楽宮(しがらきのみや 現、滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745)、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
大仏造立や大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。その様な中、天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武天皇が崩御される。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東、北、西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門〜中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100mと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。
天平17年(745)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を費やしている。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。
平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受け、また講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族や貴族の崇敬を受けて黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発された。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、
多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。
東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧、俊乗坊重源であった。
重源の精力的な活動により、文治元年(1185)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。
その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好、松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。
仮堂が建てられたが慶長15年(1610)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648〜1705)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院をはじめ多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土
のみが残されている。

南大門
 国宝。平安時代の応和2年(962)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国、宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(天竺様)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。1層目の屋根の上には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」にあわせて新調されたものである。

金堂(大仏殿)
 国宝。当初の大仏及び大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分
は中世の作、頭部は江戸時代の作である。
聖武天皇は天平15年(743)、大仏造立の詔を発した。
当初は紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良であらためて造立を開始。天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われた。
治承4年(1180)の平重衡の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は俊乗房重源(ちょうげん)の尽力により再興され、文治元年(1185)に大仏の開眼供養、建久6年(1195)には大仏殿の上棟供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567)の松永、三好の合戦によって再び炎上した。
大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690)に鋳造されたもので、元禄5年(1692)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709)に落慶したものである。
現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。一見2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。
高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。
建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した「大仏様」が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。
江戸時代にはすでに巨材の調達が困難であったため、
柱は芯材の周囲に桶状に別材を巻きつけた集成材が用いられている。なお、しばしば「世界最大の木造建築物」として言及されるが、20世紀以降に近代的工法で建てられた木造建築には、大仏殿を上回る規模のものが存在する。
大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。
いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている。堂内には他に明治42年(1909)の日英博覧会用に制作された、東大寺旧伽藍の模型がある。

大仏(盧舎那仏像)

虚空蔵菩薩坐像     如意輪観音坐像
大仏は像の高さ約14.7m、基壇の周囲70mルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表わす画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。大仏は昭和33年(1958)2月8日、「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定されている。
木造如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像(重文)
大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて制作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。
如意輪観音像は元文3年(1738)頃の完成、虚空蔵菩薩像は遅れて
宝暦2年(1752)の完成。

二月堂
 奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は寛文9年(1669)の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会(しゅにえ)といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。
東大寺の寺伝では、修二会は実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって始められたもので、大仏開眼供養と同年の天平勝宝4年(752年)に初めて行われたとされ、二月堂の創建もこの時とされる。堂の創建については同時代の史料に言及がなく、確実なことは不明である。二月堂や南隣の法華堂付近は、大仏開眼以前から東大寺の前身にあたる福寿寺や金鐘寺などの寺院が存在したところであり、二月堂前の仏餉屋(ぶっしょうのや)の解体修理に伴う発掘調査によって、前身寺院の遺構や8世紀前半の瓦が検出されている。
『二月堂縁起絵巻』(天文14年)(1545)等が伝える寺伝によると、修二会の始まりは次のようであった。天平勝宝3年(751年)のこと、実忠が笠置(現在の京都府南部、笠置町)の龍穴の奥へ入っていくと、そこは都卒天(兜率天) 
の内院に通じており、そこでは天人らが生身(しょうじん)の十一面観音を中心に悔過(けか)の行法を行っていた。悔過とは読んで字のごとく、自らの過ちを観音に懺悔(さんげ)することである。実忠はこの行法を人間界に持ち帰りたいと願ったが、そのためには生身の十一面観音を祀らねばならないという。下界に戻った実忠は、難波津の海岸から、観音の住するという海のかなたの補陀洛山へ向けて香花を捧げて供養した。すると、その甲斐あってか、100日ほどして生身の十一面観音が海上から来迎した。実忠の感得した観音は銅製7寸の像で、人肌のように温かかったという。以上は説話であるが、ここに登場する実忠という人物は、その出自等の詳細は不明ながら、実在の僧である。『東大寺要録』に引く『東大寺権別当実忠二十九箇条』に、実忠自身が「さる天平勝宝4年から大同4年に至る70年間、毎年2月1日より27日(14日間)の間、十一面悔過を奉仕した」という意味のことを書き残しており、これが修二会の創始を天平勝宝4年とする根拠の1つとなっている。
ただし「天平勝宝4年(749〜)大同4年(809)」である。

神仏霊場 ご朱印

修二会の大松明風景
この火の子を被ると1年間無病息災とか云い伝わっている。

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