ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの豊楽の道 大阪20番 四条畷神社

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
云わずと知れた南朝方の武将で湊川神社に祭られてる親の正成公の嫡男であります。
大阪、豊楽の道
(61)旧別格官幣社
四条畷神社(しじょうなわてじんじゃ)
住 所 〠 575―0022 大阪府四条畷市南野2―18―1
電話番号 電話 072―876―0044
御 祭 神 楠木正行(小楠公)
開 祀 明治23年(1890)4月5日
アクセス JR学研都市線、四条畷駅から徒歩東1Km(15分)
<神歴・縁起> H/P ありません
旧別格官幣社
御祭神
楠木正行(小楠公)
配祀 楠木正時 楠木正家 楠木正家子息
配祀 和田賢秀 和田正朝 和田紀六左衞門 和田紀六左衞門子息
和田紀六左衞門子息
配祀 大塚惟久 畠山與三職俊 畠山六郎 野田四郎 野田四郎子息
野田四郎子息
配祀 金岸(某) 金岸(某)弟 關住良圓 關住良圓子息 三輪西阿
三輪西阿子息
配祀 河邊石掬丸 譽田(某) 阿間了願 青屋刑部

 当社祭神、楠木正行公は、湊川神社に祀られている楠木正成公の嫡男。
父、楠木正成公を大楠公とよび、正行公は小楠公。ゆえに、当社の通称は、「小楠公さん」。
小楠公は、大阪府千早赤坂村に生まれ、南北朝時代、父と共に足利勢と戦い、
大楠公は湊川の戦において殉職。大楠公は湊川への出陣において、死を覚悟し、
桜井宿において、当時11歳だった小楠公に、「父の教えを守って正統の天皇に仕える様」訓され、別れを告げた。『桜井の別れ』
 その後、南朝の武将となった小楠公は、度々敵を打ち破ったが、瓜生野の戦では、敗走する多数の敵兵が渡辺橋(現大阪市、天満橋附近)から落ちて酷寒の中溺れるのを助け挙げ、傷の手当てをし、衣食を与えて京都に帰したという。
四條畷の決戦に際し、
小楠公は、吉野の如意輪堂に行き、一族143名の名を留め鏃を用いて板壁に
 辞世の句を記したという。
「帰らじと かねて思えば梓弓 無き数に入る名をぞ留むる」
四條畷の決戦において討死にされ、遺体は、現四条畷駅西側に小碑を建て、
両脇に楠の若木を植えて墓とした。明治23年、建武中興に尽力した功績により、別格官幣社として四條畷神社が創設された。
建武中興十五社の一社。

楠正行公 時世の歌 (吉野 如意輪寺蔵)
「帰らじと かねて思えば梓弓 無き数に入る名をぞ留むる」
如意輪堂の壁板を過去帳として各自の名字を書きつらね、その奥にこの歌を書きとめて、生還を期せぬ決意をかため、鬢の髪を切って仏殿に投げ入れ、戦場に臨み、討死した。(『太平記』巻26)
四條畷神社略記
四條畷の地は正平3年(1348)1月5日、正行卿が忠烈無双の御宗族将士と共に誠忠、純孝、正義のため殉節せられた由縁の地である。その殉節の地域は同町字刈屋にあり、畏くも明治9年(1876)には従三位を追贈せられ、翌明治10年、境域を拡めて一大碑石を建てられた。同年2月、明治天皇大和行幸にあたり、同17日、勅使を差遣わせられて卿の精忠を追感あらせられ、特に金幣を賜う。是れより先、慶応4年(1868)、同地の平田神社神主三牧文吾等は、殉節の地に神社創建を度々願い出で、その後有志達もしばしば懇請し、明治20年(1887)6月、時の大阪府知事西村捨三より神社創立並に社号と、有志の創立願出あり、同年6月29日、願出の旨聴届けられて、同年12月16日には明治天皇より神社創立の勅許を仰ぎ、四條畷神社の社号宣下を賜い、別格官幣社に列格せられて、翌23年(1890)4月5日、御鎮座せられた。
 御妣(みおや)神社
御祭神は正行卿の御母公にて、我が国母性の亀鑑と仰ぎ奉る。大正13年(1924)4月16日、四條畷神社外有志者によって、摂社として奉祀することを申請。
同年6月11日、御創立の儀聴届けられ、同14年10月5日、御鎮祭を執行する。
 小楠公御墓所
四條畷神社表参道を西へ約800mの処にあり、正平3年(1575)1月5日、
正行卿が御弟正時卿をはじめ宗族将士と共に殉節されたところである。
村人は卿をお慕いし密かに御骸を葬り奉り、足利氏を憚り南無権現とのみ刻んだ小碑を建てその両脇に若き樟樹を植えたが、年を経て合樹一株となり碑はその中に包まれてしまった。後、天正12年、更に碑を建立、正面に南無権現とあり左側の文字は消磨して不詳であるが現存している。大樟樹の右側に明治10年、内務卿大久保利通公の筆による大墓碑が見える。
楠天神社
当社は文教の守護神菅原道真公をお祀りしている。明治維新の方向を決する原動力となった真木和泉守は、歴史を単なる知識とせず、道義を明確する鏡として、常に菅公、楠公を崇敬し、君を思い慕う純情を菅公によって養われ、一身一家を棄てて皇位を護持する情熱を、楠公によって鍛えられ、この思想が遂に維新の主流となって、明治の聖業が完成されたのである。

拝殿

摂社 御妣神社(みおやじんじゃ)

本殿

     境内石碑 桜井の別れ       楠木正行公御墓所

神仏霊場 ご朱印

                     四条畷神社 由緒記
楠木正行公一代記

桜井の別れ

 建武3年(1335)5月21日、楠木正成公、湊川の決戦に向かうにあたり桜井の駅で、長男楠木正行と今生の別れを告げる。
正行は父に従わんと願ったが、正成曰く「後に残り忠孝を励め」と短刀一振りを与えて河内へ帰す。時に正行11才である。これが、有名な桜井の別れである。
(現、大阪府島本町付近)
「桜井の駅で父は死ねと教えられたか」

 楠木正行、父正成公湊川にて討死の報せが届くと悲しみのあまり佛間に入り父の後を追って腹を切ろうとした。かけ込んだ母にとどめられ「桜井の駅で父は死ねと教えらたか」と、さとされ楠木正行気を取り直し、これより一心不乱に文武の道に励む。
 内侍との出会い

 正行公成人の後、河内近辺にて賊に、さらわれようとする女人を助け、尋ねたところ吉野朝廷に仕える女官弁内侍であった。
早速家来に命じて吉野まで送り返す。のちに後村上天皇より内侍を正行の奥方にとのお言葉があったが、四条畷の戦には生きて再び帰れぬ覚悟であった為辞退された。正行公戦死の後、内侍はただちに尼となり菩提を弔う。
 後村上天皇に拝謁

 正平2年(1347)12月27日四条畷の決戦に向わんとするにあたり、吉野の皇居に後村上天皇に拝謁。天皇より、
「正行よ、汝がたよりである。若し戦不利ならば必ず戻るよう」とのお言葉を拝したが、心中再び帰らぬことを決して、そのまま皇居を出で、如意輪寺に向かう。
 辞世の歌

 先帝後醍醐天皇陵に参拝し、如意輪堂に詣で、各々髪を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を書き連ね、正行公は堂の扉に鏃を以って、
 「かえらじと  かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」
と辞世の歌を書き残し、その日吉野山を出陣。四条畷へ向かう。引連れた主な家来143名であった。
 四条畷の戦い

 正平3年正月5日。四条畷の戦いは早朝よりはじまり、夕刻に及ぶ。敵将高師直の軍勢約5万、味方は5千、一気に本陣に向かい、師直の首を斬ったが影武者の首であった。7度空に投げ上げ残念がったが、遂に弟正時と差し違えて討死す。時に正行23才、正時21才であった。
(如意輪寺 H/Pより写す)
正行公及び143名の髻塚
 正行公及び143人が出陣に先立ち如意輪堂に奉納した髻は、その後、御陵の西方の小高き所に埋めて石の五輪塔を建て、霊をまつり、楠塚と唱えた(蔵王堂陵図‐柳沢元伯爵家蔵参照)

 安政4年(1857)に至りこの五輪塔を廃して碑を建て、上方に「正行公埋髻墳」、下方に「精忠兼至孝至節在天聞五百年前月今仍照髻墳 芳山司職免堂撰」と刻したが、その後、御陵の拡張と共に現在の地に移転改葬された。
(如意輪寺H/Pより転写)

観心寺 正成公首塚 湊川神社 正成公墓票銘
桜井駅址
大阪府三島郡島本町桜井(旧 摂津国嶋上郡桜井村)にある古代律令制度下の宿駅の跡。大正10年国指定の史跡である。

石碑「楠公父子訣別之所」、揮毫は陸軍大将乃木希典
この駅跡は、「楠公父子訣別之所」として知られ、「太平記第16巻」の「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において1336年(延元元年・建武3年)、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の正行を河内国に帰らせたと伝えられている。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング