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古寺巡礼コミュの豊楽の道 大阪6番札所  南田辺の法楽寺さん

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いつ参詣に行っても線香の絶えない寺と云う感じの庶民に愛されてる感じのお寺です
大阪、豊楽の道
(47)紫金山 小松院 
法楽寺(ほうらくじ)
住 所 〠 546―0035 大阪市東住吉区山坂 1―18―30
電話番号 電話 06―6621―2103
本  尊 不動明王
開 山 平重盛
創  建 治承2年(1178)
アクセス JR阪和線、南田辺駅下車。南田辺駅改札を出てすぐ北側の道を東進約50メートル。徒歩4分。
<寺歴・縁起> H/P  http://www.horakuji.hello-net.info/
真言宗泉湧寺派大本山(総本山 泉湧寺)近畿36不動尊3番
おおさか13仏霊場1番 摂津国88所40番 役行者霊蹟札所
神仏霊場 巡拝の道 第47番

 法樂寺は山号を紫金山(しこんざん)、院号を小松院(こまついん)と号す、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派の大本山です。
近世江戸期には、戒律復興運動の中で中興された、厳格な律院でした。「日本の小釈迦」とまで賞された慈雲尊者が得度され、また初めて住職となられた、尊者ゆかりの寺院でもあります。
法楽寺は、戦後戒律の伝統が潰えたことにより律院でなくなり、近年「田辺のお不動さん」の名で親しまれる祈祷寺、檀家寺になっています。
現在、近畿36不動尊霊場第3番ならびに大阪13佛霊場会第1番、役行者霊蹟札所、神仏霊場(大阪/第6番)ともなっており、様々な方の信仰に支えられています。
法楽寺は、昔に言うところの摂津国田辺、現在の大阪市東住吉区山坂に位置しています。今は昔の話となりますが、北には阿倍野の四天王寺、東には繁華な平野郷、そして西には朱雀大路、または熊野街道が通っていました。
朱雀大路は、北は四天王寺を経て難波宮へと続き、南は日本最古の官道である竹之内街道へとつづく道でした。熊野街道は、その名の通り、古くは熊野参詣路としてにぎわった街道です。それら大道、街道としてにぎわいをみせていた中間域に、当山の境域があります。
 鎌倉時代から南北朝の争乱から室町時代、戦国時代と、激しく揺れ動く時代
を経てなお、このような位置に、廃絶することなく今日まで残ったことは、奇跡のようにも思われます。しかし、これこそまさに、その長い歴史の中で、数も名も殆ど知られることもなかった方々の信仰による、あつい外護の賜物に他なりません。

攝津名所図会巻1―65 田辺法楽寺
 その項に法楽寺として記載あり、
法楽寺 南田辺村にあり 宗旨 四宗兼学 京師 泉湧寺に属し 紫金山小松院と号す 黄檗悦山書額にも紫雲山と書く
本尊 如意輪観音 源頼朝公念持仏 背面銘に曰く 左馬頭源義朝1刀3礼
久安2年(1146)丙寅2月18日法眼湛幸作
仏舎利 二顆寶塔に安置 伝えて曰く小松内大臣平重盛公懇志よくよく宋國より贈られる所なり 委は寺記に見えたり 又舎利記の踵曰く
育王請来舎利云々とあり、その他釈迦堂等寺記も掲載されています。

大日大聖不動明王
法樂寺の本尊は、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)立像です。左右には、矜羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子の二童子を従えています。
本尊を挟んだ向かい合わせの壁には、山本兆揚仏師による四大明王画が奉られています。
本堂の右脇陣には、釈迦牟尼仏を中尊としてその両脇に如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩を、左脇陣には、十一面観世音菩薩を本地とする大聖歓喜天を奉安しています。
法樂寺で最上最尊の寺宝は、阿育王山伝来の仏舎利二粒です。これは現在、平成8年に建立された、本堂前にそびえる三重塔内の仏舎利塔に奉安されています
不動明王が本尊の寺らしい事が起こった。昭和53年秋、法樂寺の蔵から偶然不動明王図像が発見されました。
この発見された不動明王図像は、学術調査の結果、「天下の三不動」の一つ京都青連院の国宝「青不動」の原画と判明。日本仏教美術における第一級の名品であることがわかりました。
この発見は、日本仏教美術史における一大ニュースとして、読売新聞朝刊(昭和53年10月2日)の一面を飾ります。その時、その画像は大きくカラーで掲載されました。
これは当時の新聞業界では極めて異例、画期的なことで、朝刊にカラー画像が掲載されることなど、それまでにないことでした。結局これがきっかけとなって、以降朝刊においてもカラー写真が掲載されるようになります。
現在、この不動明王図像は、「絹本著色不動明王二童子像」と名付けられ、重要文化財に指定されています
重要文化財 法楽寺 絹本著色不動明王二童子像 解説

 大阪市東住吉区山坂一丁目の「田辺のお不動尊」で親しまれている法樂寺から、このほどきわめて貴重な絹本著色の不動明王三尊の画像が発見された。このことはいち早く読売新聞紙上(注:昭和53年10月2日月曜日朝刊一面)に報道された通りである。私がこの道に携わって40数年になるが、その間、各地の社寺を調査して、木像や銅像のすばらしい遺品を数多く見出したことはあるが、今回発見の仏画ほど顕著な発見もあまり経験したことがない。
法樂寺は、伝えるところによると治承2年(1178)に平重盛が開いた寺といい、8百年の間、田辺地区で栄えた。しかし元亀2年(1571)に織田信長の兵火にかかって全焼し、現在の本堂や諸堂はそののちに再建された。信長に根こそぎ焼かれたお寺であるから、本寺からこのようなすばらしい画幅が発見されるとはだれが想像したであろうか。昭和53年10月の末に重盛公の8百年忌法要を厳修される準備の最中にこの不動明王像が出現したのであるから、何やら因縁めいた感じを受けるのは私独りだけであろうか。とにかく驚くべき名画が世に現れた。

この画幅は、縦1.19m、横0.784mの絹本の中央に黒青色の不動明王は後背に物すごく燃えさかる火炎を負い、岩座に左足をさげて半跏坐の姿に表し、その左右に矜迦羅(こんがら)と制咤迦(せいたか)の二童子像が侍立し、また絵の下半分に岩石、波、波頭などを描いている。
不動三尊像は世間にかなり多く残っているが、「天下の三不動」と俗称のある大津市園城寺(三井寺)の黄不動尊像、高野山明王院の赤不動尊像、京都青蓮院の青不動尊像の3点が有名で、絵としても優れた遺作として喧伝されている。 
しかし今度発見された法樂寺本は青蓮院の青不動尊像と非常によく似た表現があり、一見した時に私は驚いた。ただ青蓮院本は結跏趺坐像であるのにこの像は半跏坐であり、右手に持つ宝剣に青蓮院本は竜が巻きついているのに本像はそれがなく、また後背の火炎の表現法が異なっているが、このほかはあまりに酷似しているのに何びとも驚く所と思う。
しかし両脇侍の二童子像の姿は両幅全く異なり、特に本幅の画面に向かって左側に描かれている制咤迦童子像は、特異な形相を示し、首は右にかしげて上目づかいに上を向き、ツエをつく右手首の上に左手をのせて手のひらを外に向けて奇妙な手つきを示して、強く印象に残る姿である。ところが京都市醍醐寺に鎌倉時代の早いころに描かれた図像がたくさん残っている。図像というのはいろいろの仏菩薩などの形相を写しとめて心覚えようとするもので、密教の宗派では盛んに行われている。多くの場合墨線で要領だけを描きとめておくものであって、醍醐寺の図像本もそれである。その中に、不動明王の頭部と脇侍の二童子像とを描いた一図があるが、その形相が全く本図と同一であって法樂寺の不動三尊画像はこの醍醐寺の図像と密接な関係があるものと何びとも疑わない。
この図像の右側に「已上不動御頭並二使者飛鳥寺玄朝筆」と墨書してある。従ってこの図像は飛鳥寺の玄朝なる人が描いたものを写し取ったものであることがわかる。
玄朝という人は十分に経歴はわからない人であるが、「東大寺要録」という文献の巻第八に大仏殿の東西にある曼荼羅が破損したので、永延元年(987)に修理をしたが、その時「元興寺玄朝」が地神像を描いたと書いてある。これが唯一の玄朝に関する資料であるが、飛鳥寺と元興寺とは同一寺であるから、醍醐寺の不動明王の頭部等を描いた飛鳥寺玄朝は十世紀の終わりごろに活躍した画家である。

法樂寺の不動明王像と醍醐寺の図像との同形相は偶然の一致でなく、両者はきわめて関係が深い。これに三つの考え方がある。1.法樂寺本が玄朝の原本で、それを見て醍醐寺の図像が描かれたとする説。2.玄朝の原本がほかにあって、それから法楽寺本が描かれ、法樂寺本から醍醐寺本が描かれたという説。3.玄朝の原本から法楽寺本と醍醐寺本が描かれたとする説の3つが考えられる。
醍醐寺本が玄朝の不動尊の顔と2童子像との形相を忠実に写し取っているから、法楽寺本はとにかく玄朝と極めて関係の深いことは何びとも認めるところである。しかし、醍醐の図像と本像とを比べて見ると二童子像の表現に多少異なる所がある。それは向かって右の矜迦羅童子の左手の肘と右足の足首の開きが違っている。左の制咤迦童子は法楽寺本は不動明王の座る岩座の右かどが童子の腹部の前につき出て、しかもよく整理された衣紋を描いているから、図像本の原本はこの所がはっきり全身を描いてあったものと想像され、それを写したものにちがいない。このように比較すると醍醐寺本は忠実に玄朝本を写し、本図は玄朝本に多少創意を加えてことさらに少しく図様に変化を加えて描いたものと見るべきであろう。
法樂寺本の火炎はまことにすばらしい表現である。下方から強い風を送って炎を噴き上げたような勢いを示し、青蓮院本の炎もすばらしいが、本図の方がさらに燃えさかるすさまじさを感ずる。波や岩の表現法も巧みであり、仏画としてはトップレベルに属する優作である。上述の通り玄朝は平安中期の早いころに活躍した画家であるが、本図は手法様式から考えて、その時代まではさかのぼれず、ややくだって平安時代末期の作と見るのが、当を得ているものと考えられ、このころの作として、すばらしい出来映えをなし、しかも忠実に玄朝作を伝えたみごとな作品というべきであろう。
昭和53年10月23日 読売新聞夕刊
この発見は今までは日本3大不動を日本4大不動と美術史や社会科の教科書等も書きくわえなければならないでしょう。

三重塔
 平成建立の三重塔
法樂寺の山門をくぐるとすぐその前に、天に向かって直立する、木造三重塔を目にすることができます。この三重塔は、重厚な鎌倉時代様式の百済寺(奈良県広陵町)の三重塔を模して建立されたもので、正式には「法楽寺三重宝塔」と命名されています。
この塔は、法樂寺現住職(小松庸祐)が平成3年、その建立を発願。檀信徒ならびに十方有縁の方々のご協力のもと、平成5年に相輪(そうりん)が完成。
平成6年には、当山奉安の仏舎利二顆由来の地、中国江南は育王山に参拝して工事の安全無事を祈願。同年に地鎮祭を執行。翌7年4月29日に立柱式。
平成8年11月26日には、三笠宮崇仁親王殿下ならびに同妃殿下のご臨席を賜り、三重塔本尊開眼供養ならびに落慶法要を厳修。ついに完成いたしました。
 使用された木材はすべて東吉野産の桧(ひのき)で、屋根瓦は生駒産本瓦。
いまだ生気を感じさせる桧の色合いと、左右に凛として広がる三重塔の屋根のソリの美しさもさることながら、なんといっても美しいのは、空に直ぐ生え上がる塔頂に据えられた、繊細にして重厚なる相輪(京都・磯村才治郎商店製作)です。やや大きめに造られた請花(うけばな)と九輪(くりん)ならびに水煙(すいえん)とのバランスは絶妙で、それが重厚な三重塔の姿勢を天からグッと引き締めています。
法樂寺三重宝塔は、法樂寺の樹齢800年を超える楠の老古木と並んで法楽寺のシンボルであり、境内より離れた地、たとえばJR阪和線の車中からもこれを望むことが出来ます。現在、たなべ不動尊の縁日である毎月28日には、法樂寺三重宝塔の初重を開扉し、参拝の方々に内陣を拝礼して頂けるようにしております。
内陣の密壇に安置している宝筐印塔の中には、中国育王山より伝来の紫金二顆の仏舎利が奉安されています。この三重塔の真の本尊、いや法樂寺の真の本尊と言うべき、尊いものです。
 境内の楠

私の家のすぐ近くに法樂寺という古刹がある。その昔慈雲さんは、ここで剃髪修行せられた。寺歴によれば平重盛の創建と言うから相当に古い。
門を入った所に樹齢800年の大楠がある。
計ったことはないが、四かかえか五かかえぐらいはあろう。大阪で一番古い木が住吉神社のやはり楠で、法楽寺のは2番目だという。浮き雲に抗するように亭々と聳え、枝を拡げ、太い根はしっかりと地をつかんでいる。腰のあたりに注連縄を締め、黙って立っているが、随分人の哀楽栄枯を見てきたことであろう。木下に立っていると夏も涼しく気も落ち着いてくる。何かこの木に霊があるようにも思われてくる。
若木の前には笠をぬげ」という言葉を聞いたことがある。少年の頃だったその時は何も感じなかったが、今頃になってなるほど名言だと思う。
小指ほどの木も、20年、30年後には高く仰ぐ大木になるのである。これを人にたとえるなら「若人の前には帽子をぬげ」ということになる。今、はたちの人も20年後、30年後には一かどの人物になる。
しかし若木がすべて大木になるとは限らないように、人の運命も定めはない。枝を切られ矯められて姿美しく鑑賞される盆栽もあれば、大廈の柱になる木もあり、伐られることもなく、千年の寿命を保つ木もある。
本来木はそのいずれを好むのであろうか。これを書の方に向けて考えてみると、書人は自分の書をどのような形に育てようとするのか。性格により、好みにより、人生観により人さまざまであろうけれど、特に若き書人の志向に耳を傾けたいと思う。(昭和46年8月) 書家、小坂奇石氏談
 慈雲尊者とは

法楽寺と慈雲尊者とは切り離せない人物である。
慈雲尊者とは、江戸中期の大阪を中心として活躍した仏教僧です。
俗名は上月平次郎、僧名は慈雲(じうん)、字は飲光(おんこう)。号は百不知童子(ひゃくふちどうじ)、雙龍叟(そうりゅうのおきな)、葛城山人(かつらぎせんにん)など。
尊者は、享保3年(1718)7月28日、大阪中之島は高松藩蔵屋敷に生を受け、文化元年(1804)12月22日、京都阿弥陀寺にてその生涯を閉じています。享年87歳。
釈尊の説いた教えを純粋に実践し、本来の僧侶や寺院のあり方を取り戻そうと戒律復興運動に尽力。
冥想に打ち込み、多くの庶民に法を説いて止まなかった慈雲尊者は、やや後代に剣術家や書家、政治家として活躍した山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)から、「日本の小釈迦」とまで讃えられています。
慈雲尊者は、13歳で摂津法楽寺にて出家し、天下の三僧坊と世にうたわれた律院の一つ、河内野中寺(やちゅうじ)にて、21歳で具足戒を受け比丘となった、律宗の真言僧です。
野中寺から法楽寺へ帰ってその住職となるも、2年たらずでその職を辞し、
信州は曹洞宗正安寺の高徳、大梅(だいばい)禅師のもとに約3年間参禅。
大阪に帰り、師の命によって高井田長栄寺に住職として入って後には、法弟の愚黙親証(ぐもく しんしょう)の懇願によって、「正法律(しょうぼうりつ)」という一つの思想を唱え、実行しています。
 「正法律(しょうぼうりつ)」という一つの思想とは
慈雲尊者をして、「正法律の開祖」である、という人もありますが、これは適切ではありません。まず、「正法律」という言葉自体が、『大般若経』や「根本有部律(こんぽんうぶりつ)」などの仏典に散見される言葉を使用したもので、尊者が考案したものではありません。また、その内容も、尊者があらたに考案したものでもありません。あるいは「真言宗の戒律」といった類の、宗派や団体独自の戒律と言われるものでもありません。
正法律、それは仏陀釈尊が定められた通りの生活、修行を行い、禁じられたことは行わないという、いわば仏弟子としての「あるべきよう」に則ることを主張した言葉です。ところで、僧侶の「あるべきよう」の具体的指標、僧侶たる者の生活・行いを規定する根拠となるものは、「経蔵、律蔵、論蔵」のいわゆる三蔵のうち、律蔵以外にありません。
そこで尊者は、僧侶たるものはすべからく「律」に則ったものでなければならず、その実行に際しては、決して人情を交えてはならず、それまでの慣習によってもならない、という態度を第一として挙げています。そして、尊者は、釈尊の説かれた戒と律とを守り、実行する者であるならば、仏教における経律に則ったいかなる思想を信奉し、またどの宗派に属しているとしても、誰でも一派同朋であるとしています。しかし、これは本来、仏教徒であるならばごく当たり前の態度であって、取り立てて主張すべきことでないはずのものです。ところが、日本仏教各宗派の教義やその体制は、「祖師(仏)教」と換言することが出来るほど、仏教僧団の本来的あり方からかけ離れたものでした。
彼らは、自らが属する宗祖を、まるで仏菩薩や神の化身であるかのように崇拝して盲信するのが常であり、釈尊をすら軽視する傾向にあります。自分たちの宗派を最も優れた絶対的なものとみるあまり、教義的にも体制的にも、非常に偏向的、排他的なものとなっているのです。
 彼らのほとんどは、「祖師無謬(そしむびゅう)説」とまで言われるように、祖師と言われる人の思想を、無根拠に、もしくは経説を牽強付会(けんきょうふかい)してまで絶対視する教義を構築。
それがために、そこに属する人々は、そのような、ときとして極めて偏向な教義の枠内でしか釈教を捉えることが出来ません。彼らからすれば、自分たちこそが「釈尊の真意」を正しく理解し、実践しているというのですが、それは結局、いわば仏教を換骨奪胎することにつながった言えます。
また、祖師と言われる人の中には、戒律不要論、戒律害悪論と解し得る主張を公然とした者すらあります。もし、戒律の重要と実践を強調していた者があったとしても、その弟子達で戒律の遵守をなす者はごくごく稀でした。この様な態度は、これは現在にいたってもまったく同様でいかんともしがたいのですが、日本仏教界ではむしろ常識的なだったのです。
そのような日本仏教各宗派の思想は、きわめて観念的・情意的なもので、そこに属する人々がいくら仏像を礼拝して経典を読み、頭を丸めて袈裟をまとい、堂々と仏教の看板を挙げていたとしても、それらは「もはや仏教ではない」と断じて差し支えがない程です。
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東大阪 長栄寺の慈雲尊者像
さて、尊者は、そのように人が戒と律とを守らず、偏向な一宗一派の教義に拘泥し、宗派の祖師を盲信して宗派びいきすることを、強く批判しています。
それぞれの祖師の思想には、長所もあるものの短所や誤りも多いことを指摘。もしそれに依るとしても参考する程度に留め、あくまで学び行うべきは、後代の者達の観念的解釈を廃した、仏典に伝えられる釈尊の言葉そのものであるとしたのです。
そして、その際は、仏の教えには「八万四千の法門」と形容されるほど膨大な数ある内の、いずれかごく一部の経典に説かれている、時として非合理な教えに固執してはらなず、三蔵を通じて合理的に学び行うべきであるとされています。このような正法律思想の根本的態度は、尊者の著された『根本僧制(こんぽんそうせい)』という著作から知ることが出来ます。
「正法律」、それは日本の仏教徒に根強くはびこった宗派意識を撤廃し、釈尊在世当時の僧侶のあり方に立ち帰ることを目指した、いわば「釈尊に帰らん」との宣言、実践を指すものです。


神仏霊場 ご朱印


南河内 高貴寺にある 慈雲尊者 霊廟


               近畿36不動尊 3番 ご朱印

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