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古寺巡礼コミュの豊楽の道 大阪2番 四天王寺さん

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大阪、豊楽の道
(43)荒陵山 (あらはかさん)
四天王寺(してんのうじ)
住 所 〠 543―0051 大阪市天王寺区四天王寺1丁目11番18号
電話番号 電話 06―6771―0066
本  尊 救世観音菩薩
開 山 聖徳太子
創  建 推古天皇元年(593)
アクセス 地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅下車 南へ徒歩5分
<寺歴・縁起> H/P http://www.shitennoji.or.jp/
和宗総本山 聖徳太子霊跡1番 新西国33箇所1番 近畿36不動尊1番
法然上人25霊跡 6番(六時堂)西国薬師49霊場16番
摂津国88箇所25番 西国33箇所番外 神仏霊場 巡拝の道 第43番

 小学校や中学校の教科書(社会科?)に出てくる定番のお寺、大阪ではお寺の事を00さんと親しげに呼ぶ事が当たり前の様な習慣がある。四天王寺さんであります。創建は四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。
今から1400年以上も前のことです。
『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に示されています。「四箇院」とは「帰依渇仰 断悪修善 速
証無上 大菩提所」 つまり仏法修行の道場である“敬田院”、 病者に薬を施す
“施薬院”、病気の者を収容し、病気を癒す “療病院”、身寄りのない者や年老
いた者を収容する“悲田院”の四つの施仏教の根本精神の実践の場として、四
天王寺を建てられたといえるでしょう。これらの施設は、中心伽藍の北に建てられたようです。 その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。 その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6〜7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされています。
 平安時代は伝教大師最澄の興した天台宗、弘法大師空海の興した真言宗の
2大宗派に深く関わるようになります。例えば、空海は延暦6年 (787) に
四天王寺に借住し、西門で西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄土を観想する「日想観」と呼ばれる修行をはじめました。また、承和4年(837)には、 四天王寺の最初の別当に真言系の東寺の阿闍梨円行が就くなど、 真言宗とのつ
ながりが認められます。しかし、真言宗よりもさらに強いつながりを持ったのが最澄の天台宗です。
最澄は弘仁7年 (816)に四天王寺に借住し、上宮廟に入り、法華宗を広めよ
うとして詩を奉り、六時堂や椎寺薬師院を創建したと伝えます。
その後も最澄の弟子光定の上宮廟への参籠、 同じく円仁の四天王寺での法華経、仁王経、の講義、安居講の創始などがあります。さらに四天王寺別当職も、東寺の円行以降は天台僧の補任が圧倒的に多くみられます。つまり四天王寺はかなり早い時期から天台化されたといえそうです。  
この天台化による四天王寺信仰の特色としては、 聖徳太子を天台大師の師
匠に当る南多岳慧思禅師の生まれ変わりと説き、 法華思想を取入れると同
時に、久遠釈迦如来への信仰、特に舎利信仰が盛んとなりました。
また、天台浄土思想とも結びついて当寺を極楽浄土の東門の中心であるとし、現在も西門石の鳥居の扁額に記される 「釈迦如来転法輪処 当極楽土東門中心」
の言葉が示すように四天王寺の信仰の大きな柱となりました。
 このように平安初期、天台化された四天王寺ですが、寺としての基盤は創建
当寺や奈良時代ほど強力とはいえませんでした。 さらに、『日本紀略』により
ますと、天徳4年(960に焼亡するとあります。 この時の火災は大規模だっ
たようで、四天王寺にとっては極めて大きな打撃だったと思われます。
しかし、 太子信仰、 舎利信仰、浄土信仰に支えられた四天王寺は、天皇家
はもちろん、藤原一門らの貴族の庇護のもと再建されます。さらに、寛弘4年
(1007)に金堂六重塔中より 『四天王寺縁起』 が発見されたこともあり、この頃から天皇、皇族の参詣が頻繁に行われるようになりました。12世紀に入ると天皇、貴族の参詣はさらに盛んになり、藤原頼長の日記 『台記』を見ると、金堂で舎利会を行い、聖霊院で絵解きを受けるなどしたことが記されています。 つまり、浄土信仰 、舎利信仰、太子信仰のそれぞれ行事が行われたことがわかります。殊に、西門の浄土信仰は法皇、貴族のみでなく、一般庶民に大きな広がりをみせました。この信仰は時に熱烈なものもあったようで、
保延6年(1146) に僧西念が西門より西海に向かって入水往生したことなどは
その例といえます。
鳥羽法皇の後、後白河法皇も負けず劣らず四天王寺参詣に熱心で、そのなか
でも文治3年(1187)の五智光院での授戒灌頂、翌4年の八条女院らとの如法
経供養などは大きな出来事でありました。

五智如来像
四天王寺は鎌倉時代に至っても、後白河法皇や貴族の四天王寺への参詣は跡を絶たず、さらに建久6年(1195)に、将軍頼朝が参詣したのをはじめ、武家の参詣、帰依も行われるようになりました。
西門の浄土信仰もますます盛んになり念仏停止令が出されるほどでした。
そのような中、四天王寺の隆盛に努めたのは、九条兼実を兄に持つ天台山門
の学問僧 、慈円です。
慈円は行慶別当の頃、倒壊した聖霊院の絵堂を再建し、自ら太子講式を著し、聖徳太子の徳を賞嘆しました。そして承元元年 (1207)と建保元年(1213)の2度、四天王寺の別当に就任しています。しかし、慈円の四天王寺別当就任は、以後の別当職の山門化につながり、鳥羽 、後白河上皇の頃に、四天王寺に勢力をふるった園城寺門徒の反発を買い、四天王寺の別当職をめぐって山門 、寺門の争いが激化しました。
鎌倉時代の後期には、太子の精神に深く共鳴した律僧の叡尊や忍性が活躍し
ました。現在の西門の石の鳥居は、忍性によってそれまでの木の鳥居が改めら
れたものです。また忍性は、四天王寺の四箇院のうちの悲田や敬田の2院も再
興しました。
南北朝時代では、 四天王寺も吉野方と幕府方の戦いに巻き込まれ、以後南北
朝統一までには四天王寺周辺も、たびたび戦場と化しています。
特に後醍醐天皇は四天王寺に立ち寄られたときに聖徳太子の「御手印縁起」をご覧になり、そこに書かれた太子の予見において、王道擁護の立場と仏道興隆の強い意志に深く感銘されて自ら書写し、手印二顆を押されました。これが現在残る「四天王寺縁起後醍醐天皇宸翰本」であります。
また、南朝の忠臣として知られる楠木正成が 、四天王寺に立ち寄った折に
古老から閲覧したという太子未来記について記した 「太子未来記伝義」 という書も残ります。 そこには、 南朝の正当性や勝利の確信、王道擁護の立場が見て取れます。一方、四天王寺は足利将軍家ともつながりを持ち、元中5年(1388)には義満が“天王寺領諸国段銭以下課役免除”の御書を下したり、翌年には参詣もしたといわれます。
しかし、室町時代末期の応仁の乱のときにはしばしば戦火にまみれました。寛正元年(1460)には畠山義就により放火、文明2年(1470)には大内の兵による放火などを受けています。どかれたかは不明ですが、四天王寺が大坂の中心にあることで戦いの場になったようです。

楠正成公
戦国時代はさらに苛酷で、織田信長の石山本願寺攻めの折には、本願寺方にも焼かれ、ほぼ壊滅状態となりました。この後すぐに伽藍再建の諸国勧進が行われ、豊臣秀吉からも寄進を受けましたが、実際に再建が実行されたのは秀吉亡きあとの慶長5年(1600)のことです。
四天王寺に残っている豊臣秀吉自筆と伝える『四天王寺造営目録』によると、伽と主要な堂宇が再建されたとおもわれます。 また現在の舞楽装束や所用具もこの時に寄進されています。 しかし、 この再建伽藍も短命で、 慶長19年(1614)の大坂冬の陣で大坂方の放火に遭って炎上焼失しました。その後、徳川幕府によって再建されることになり、片桐主膳正や赤井豊後守などの奉行として元和4年(1618)から6年におよぶ歳月をかけ、元和9年(1623)に完工しました。
再建された四天王寺は橘守国筆の「摂津国四天王寺図」でみることができますが、この折に建てられたり造られたもののなかで現存するものとしては、本坊方丈、五智光院、六時堂、元三大師堂といった堂宇や狩野山楽の筆になる聖霊院絵堂の板絵「聖徳太子絵伝」などがあります。
江戸時代の四天王寺は幕府の保護によって再建されましたが 庶民からも
特に西門を中心とした信仰の場として活気を呈していたようです。
しかし、この元和再建の伽藍も、享和元年(1801)12月5日の雷火によって焼失しました。この被害は四天王寺にとっては大打撃で、今度は幕府からの援助もあまり期待できませんでした。 再建するには険しい状況でしたが、 庶民の寺として四天王寺再建を望んだ大坂町人は捨て置かず、 錦袋町年寄の淡路屋太郎兵衛が勧進元となって町人の財を集め、文化10年(1813)に再建落成をみました。 まさに庶民の寺“大坂の仏壇”として四天王寺が甦ったといえます。

摂津名所図会 四天王寺伽藍
 明治以後の四天王寺は、まず、明治維新の神仏分離令により、それまで四天王寺に所属していた神社が離され、 四天王寺境内も公園地となるなど厳しい状況に置かれましたが、人々からは依然として庶民信仰の寺 ・太子の寺として深い信仰を受け、諸行事は従来どおり行われました。
その後、大正から昭和にかけては、太子創設の「四箇院」の復興を期して “敬田院”事業の継承として大正11年(1922)に天王寺高等女学校(四天王寺学園の前身)が設立、そして昭和8年(1933)には“施薬院” “療病院”を継承して四天王寺施薬療病院(四天王寺病院の前身)が設立されました。
昭和9年(1934)9月21日、近畿一円を襲った室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するなど、 境内全域が相当な被害を被りました。 昭和15年(1940)、努力のすえに五重塔が再建されましたが、それも束の間、 昭和20年 (1945) の大阪大空襲により、 六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰してしまいました。 しかしこの時も、 各方面の人々の協力を得て復興への努力がなされ、 昭和38年(1963) には伽藍が、 昭和54年(1979)には聖霊院奥殿 ・ 絵堂、経堂が再建、その他の建物も次々に再興され現在ではほぼ旧観に復しています。 さらに、戦後間もなく太子創建の寺であることから天台宗から独立し、和宗を創立。四天王寺はその総本山として、 仏法興隆と太子精神の高揚を本願とする寺として再生いたしました。
また、四箇院事業も、学校法人四天王寺学園を経営し、国際的な視野のなかで仏教教育を実施し、社会福祉法人四天王寺福祉事業団を中心に悲田、施薬、療病の各事業を継承発展させています。

金堂内陣と救世観音菩薩半跏像と四天王像
 現在の金堂は昭和36年(1961)再建された。堂内は救世観音半跏像を中心に右に六重金塔、左に舎利塔を安置する。内陣四方にはこれらを守護する四天王立像が並ぶ。
中尊 像高270.0Cm 銅造 昭和時代
金堂の本尊は、別尊雑記にある四天王寺本尊の様式をふまえ、金堂復興時に造像されたもの。
 講堂 発掘調査により飛鳥時代に基檀がつくられ、白鳳時代には完成したことががわかった。しかし幾度となく罹災し、現講堂は昭和38年(1963)の債権である。中央を境に向かって左側を夏堂、右を冬堂と呼称し、独特の平面形式となっている。

講堂 夏堂 本尊阿弥陀如来座像
 堂内に向かって左側にある夏堂の本尊。来世の極楽往生へ人々を導く阿弥陀如来像である。裳懸座(もかげざ)に坐し、来迎印を結ぶ。
木造 像高300cm 昭和時代

聖霊院(太子殿)前殿

聖霊殿(太子殿)奥殿
 聖徳太子の没後、鎮魂の為に建立されたもので、前殿(拝殿)と奥殿から構成される。幾度も焼亡を繰り返し、現在の建物は前殿が昭和29年(1945)、八角円堂の奥殿が昭和54年(1979)に再建された。

前殿内陣と聖徳太子2歳像
小さな厨子の内に太子2歳像、その後ろの大きな厨子に、秘仏の聖徳太子考養像、大きな厨子の両側に四天王像が安置される。
 太子2歳像は合掌して南無阿弥陀仏を唱えた姿をあらわしたもの。
考養像を安置する厨子の前後に扉が付いており、扉を開くと拝殿である前殿から本殿である奥殿の本尊が拝めるように設計されてると云う。

聖徳太子摂政像
 聖霊院奥殿の本尊、漆紗冠(しつしゃかん)を被り、赤い袍を着て笏をとる49歳の摂政像で傍らには宝刀が置かれている。(通常秘仏)

六時礼讃堂内陣
厨子内に礼讃堂の本尊薬師如来坐像を、その両側に四天王立像と羅睺星像、計都星像を安置する。薬師如来座像は室町時代の作。右手は施無畏印、左手に薬壺を持つ一般的な姿であるが、螺髪を粒状に彫り出し、正面生え際が下向きにあらわされているのが珍しい。後補の古色仕上げだが、もとは彩色されていたと思われる。

五重塔
 
神仏霊場 ご朱印

近畿36不動尊 ご朱印

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