ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

仙台城 /青葉城コミュの仙台城[青葉城]の構成

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
■城の構成■ 初代伊達政宗期に造営された青葉山の本丸、西の丸、二代伊達忠宗 期に造営された青葉山山麓の二の丸、三の丸(東の丸)と、それに 付随する櫓、門からなる

■本丸■ 大手門を抜け、左に折れた坂道をほぼ真っ直ぐに上り、中門(中の 門、寅の門)を抜けると本丸入り口である詰の門(つめのもん)跡 がある。本丸は、その中核的施設である大広間、本丸北東部に最も 高く威容を誇った艮櫓(うしとらやぐら)、詰の門両脇の櫓などか ら構成されていた。現在は、詰の門跡地に護国神社の鳥居がある 仙台城趾に来た場合は裏側にある埋門(うづみもん)跡から入るこ とになる。

天皇家や将軍家が訪れたときにのみ開く御成門があったが、一度も 開くことはなく、大広間には伊達藩主が座する上段の間の上に、天 皇家・将軍家専用の上々段の間があったが、同じく使用されること はなかった。 また、清水寺のように崖に迫り出すように作られた懸 造(掛造)からは仙台市内が一望でき、戦時ともなれば崖を登って くる敵に鉄砲を浴びせることも想定していた。 天守閣を持たない本 丸において最も威容な建造物として、本丸北東部(北東は丑寅、艮 と呼んだ)に位置する艮櫓(うしとらやぐら)があり、復元計画が なされていたが、石垣保存問題と国跡指定などを理由に2003年中止 が決定

■西の丸■ 現在は宮城縣護國神社がある

■二の丸■ 二代藩主伊達忠宗により造営。
寛永15年(1638年)5月4日着工され、翌寛永16年(1639年)12月に落成。以後明治に至るまで藩政の中 心であった。

二の丸の正門である大手門を入りその奥の詰門を抜け ると、藩主が住む屋敷、能舞台などがあった。

二の丸規模は東西310 メートル、南北200メートル 明治に至り、明治2年(1869年)に勤政庁が置かれ、明治4年(1871 年)に東北鎮台(後の陸軍第二師団)が置かれた。

明治15年(1882 年)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の 花火が不発のまま落ち、その火災により二の丸遺構はすべて焼失 現在は東北大学川内キャンパス(川内南キャンパス)となり、文系四 学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)が入る。大手門は二の 丸の正門である。

■三の丸■ 仙台藩の米蔵があり、二の丸造営時に造られたと考えられている 正確な造営時期は不明であるが、古くは東の丸とも呼ばれたことか ら、伊達政宗時代に西の丸と併せて造られた可能性もある。現在で は仙台市博物館がある

■大手門■ 昭和6年(1931年)に脇櫓と共に国宝に指定されたが、仙台空襲の際 焼失

■隅櫓■
脇櫓とも言う。大手門と共に昭和6年(1931年)国宝に指定されるも、戦災で焼失。1967年に民間の寄付により復元され、現在は唯一復 元された建造物である。

■石垣■ 1998年度から2003年度石垣修理に着手後 終了

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
編集宮ノ森(¢ー・) 補足

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仙台城 /青葉城 更新情報

仙台城 /青葉城のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。