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織田作之助コミュの「夫婦善哉」続編発見、原稿用紙99枚…舞台は別府へ。

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讀賣新聞2007年2月14日。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070214i306.htm?from=rss

聖ヴァレンタインの日に「続夫婦善哉」の朗報です。なお「99枚」というのは200字詰なので勘違いなきよう。

以下引用。おもいっきりネタバレしてます!!

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 大阪の庶民の暮らしを描いた無頼派作家、織田作之助(1913〜47年)の代表作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」の続編が、鹿児島県薩摩川内市内で発見された。

 後日談となる続編の舞台は、大阪から九州・別府へ。関門海峡を越えても、しっかり者の女房が駄目夫を支える“浪速の夫婦愛”は健在で、ホロリとさせる佳品に仕上がっている。

 「夫婦善哉」は、1940年、改造社の雑誌「文芸」に掲載された作之助の出世作。大阪・曽根崎新地の芸者だった蝶子が、若旦那(だんな)の柳吉と駆け落ちして結婚。剃刀(かみそり)屋や果物屋、カフェなど職を転々としながら、甲斐性(かいしょう)なしの夫を妻が支える姿を、当時の庶民情緒とともにしみじみと描いた。最後に夫婦が法善寺境内でぜんざいを食べる場面は有名。新潮文庫で版を重ね、55年には森繁久彌さん、淡島千景さん主演で映画化もされた。演劇や文楽などでは現在でも人気の演目。

 戦前に隆盛を誇った出版社「改造社」を創業した山本家が99年、大量の生原稿を出身地の鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)へ寄贈。紅野敏郎・早稲田大学名誉教授らの研究グループが内容を調査し、存在が分かった。現在は同市の川内まごころ文学館に収蔵されている。

 続編は200字詰め原稿用紙99枚で、題は「続 夫婦善哉」。柳吉が小倉の競馬場で稼いだ金などを元手に、夫婦は大阪から別府へ移住。温泉客を狙い剃刀店「大阪屋」を開き、繁盛する。しかし戦争による金属品統制で商品が仕入れられなくなり、商売替えを決意。大阪へ船で行く途中、船員に夫婦円満を冷やかされた蝶子が、〈なに言うたはりまんねん。いつも喧嘩(けんか)ばかししてまんねんで。しかし、(略)やっぱり午(うま)が合うんでっしゃろな>と照れる場面で終わる。

 改造社では本編に続いて続編も掲載する予定だったが、金属統制などの記述が検閲に触れるのを恐れて見送ったらしい。大阪府立中之島図書館の織田文庫には「続夫婦善哉」の題名と冒頭が書かれた草稿1枚があるが、作品全体の本文は確認されていなかった。

 調査に参加した日高昭二・神奈川大学教授(日本近代文学)は「何よりも、大阪文学を代表する『夫婦善哉』の続編が九州を舞台にしたことに驚いた」と語る。

 作品は雄松堂出版から今秋、翻刻出版される。

(2007年2月14日14時35分 読売新聞)

コメント(20)

たしか別府にいらした御姐さんをモデルにしたんですね。
何よりのバレンタイン情報ですわ。
上梓が待たれます。
mixiにも来ましたね。
これで日記かきたいけどマイミクの何人に反応が在るのかw
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=159741&media_id=20
ちょっと「競馬」も連想させますね。
出版を待ちましょう。
いまヤフーニュースで知りました。
ビッグニュースですね。
はい。そのとおりです。姉が4人いて、蝶子のモデルとは別の姉が別府温泉の「文楽荘」という旅館に嫁いでいました。私の祖母はその下の姉にあたります。母は子供ができない別府の伯母(母の姉)のところに養女に行き、しばらく別府で暮らしておりました。
訂正です。いい加減なことを書き、申し訳ございませんでした。

 母にちゃんと話を聞いたところ、蝶子のモデルとなった二女は通称「別府のおばさん」と同一人物でした。大阪で商売がうまくいかなくなり、別府に行って「文楽荘」を開業したそうです。ですから、夫婦善哉は続編も合わせて二女の生涯をヒントに、多分事実と違う部分は作之助の願望の通りにして、書かれた小説だと思います。母によると、事実は小説より波乱万丈だったそうです。

富田林に住んでいたのは通称「大阪の伯母さん」四女です。もう亡くなりました。
深雪さん、すごい情報ありがとうございます。思わずお母さまに取材したい気持ちになりました。
いつでもどうぞ。 メールで質問を送っていただければお返事いたします。
富田林に住んでいたのは通称「大阪の伯母さん」四女です。もう亡くなりました>

ここだけ拝見して、もしも脈絡を混同してたらすいませんが、富田林にお住まいになっていたのは織田作の実姉で長女です。竹中家に嫁入りして、織田作の生前から何くれと面倒をみていた竹中タツさんなのですが。

ボクが一度だけお訪ねした時にはまだご健在で、本当にいい方で、昔美人だったというのがわかるお婆ちゃんでした。竹中家にはまだ織田作が執筆していた書斎が残されていたように思いますが、もうないかもしれません。
すみません、「竹中のおばさん」の方でしたか・・・ たしか、昔聞いた母の話では、大きな電気か何かの商店に嫁に行ったということしか覚えていませんが・・・

確かに美人だったようです。 私の祖母である三女も評判の美人でした。 その祖母は自分の母と同じように四女一男を同じ順番で儲けました。 そのうちの三女が私の母です。 母は父似ですが、すぐ上の二女(故人)は母親に瓜二つだったそうです。 私も、伯母は人が振り返るような美人だったことを覚えています。 亡くなったときも、救急車の人が「こんなに綺麗な人、初めて見た」と言ったそうです。

母の兄弟5人の人生も並外れて波乱万丈ですし、私自身も周りの人から言わせるとかなり無鉄砲で情熱的だそうです。 遺伝子でしょうか。

竹中家の現在の様子はちょっとわかりません。 また、母に聞いておきます。
深雪さま
波乱万丈、無鉄砲、情熱的!
無茶サクのDNAを脈々と受け継いで、羨ましきかぎりです。
こっちはツメの垢でも煎じて飲みたいぐらいでしたから。

竹中家には私がお邪魔した当時、困った御仁がいましてね、名刺を置いて帰った翌日、突然、大阪のうちを訪ねてきた方がいました。その旨を作家で織田作の友人であり、評伝も残している瀬川さんに不躾ながら報告すると、周囲はその人物で困っている…とのこと。織田作はいろんなものを残してくれる…と苦笑ものでした。もう27年も前のことですから時効でしょう。

織田作と交流があった川島雄三が撮った「わが町」が大好きです。辰巳柳太郎のベンゲットの他ぁやん。森繁の舞台も観ております。

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