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東洋大学附属牛久高校コミュの東洋大牛久ボート部

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 はじめまして。
 
 みなさんは昔ボート部が東洋大牛久にあったのをご存じでしょうか。
 
 実は25年前の今日まであったのです。
 
 しかし昭和60年12月18日、訓練場所である霞ヶ浦沖で一年生5人と3年生1人が乗った艇が急な天候の変動により遭難事故に遭遇、不幸にも佐々木康君、佐々木健太郎君、坂本貴文君の1年生3人が亡くなるという惨事となってしまいました。

 自分はその時一年生でその艇に乗っていて生き残ってしまったひとりです。

 あの事故以来何年も事故について「なんとかあいつを助けられたんじゃないか」とか、天候が変わり始めた時三年生にもっと強く「岸につけましょう」と進言していればあんな事故は起きなかったんじゃないかなどと自問自答の日々が続き事故の事を人に話すことさえ出来ませんでした。


 彼等が亡くなってしまったことがしばらくの間受け入れることができず苦悩の日々もすごしました。

 事故の事を思い出し、フラッシュバックに悩まされることもありました。

 彼等がどんなことを思いながら冷たい水の中に沈んでいったかと思うとやりきれない気持ちでいっぱいになりながらも現在まで生きてきました。


 毎年彼等の命日には欠かすことなくお墓参りに行っています。これからも自分が生きている限り命日のお墓参りは忘れないことでしょう。
 
 本日も例年通りお墓参りに行ってきました。

 25年経った現在でも彼らの16歳だったころの顔がはっきりと目に焼き付いています。

 このトピを見たみなさんの中で彼等と親交のあった方もいるかと思います。
 毎年お墓参りに行く必要はありません。でも彼等とともに過ごした時間を少しでも思い出していただけたら彼等も喜ぶと思います。


 
 


 
 

 
  
 
  

コメント(15)

グースさん>こんばんは。82年卒業なんで ちょっとだけ先輩のヒロと申しますm(__)mはじめまして

あの事故に遭われたのですね泣き顔良く覚えております。
当時 卒業して単身大阪に暮らし始め やっと関西にも慣れ 母校が懐かしく思える余裕が出て来た頃 ボンヤリ見てたニュースに愕然としましたげっそり



もう25年も経ってしまったのですね考えてる顔早いものです…


グースさん 辛かった事でしょう泣き顔けれど貴方が亡くなられた同級生の分まで一生懸命生きて下さい力こぶ

インターハイ出場など輝かしい栄光の東洋ボート部におられた事に誇りを持って まだまだ続く人生exclamation 過去を乗り越えて頑張って生きて下さい指でOK

友達も見守ってくれていると思いますよわーい(嬉しい顔)



大阪から ご冥福をお祈りしております。
私が2年生の時に起きた事故でした。

学校葬では献花をしました。


中の良かった後輩のクラスメートも3人の中に含まれていて、ショックを受けました。

元ボート部で付いて行けずにうちの部に流れてきていた先輩からも、ボート部の練習のキツさとそれを続けている部員のすばらしさ。
事故が起きてしまう自然条件の防ぎようのなさ、転覆した被害者が判っていてもとってしまう行動の心理的な側面などをポツリポツリ聞かされました。
「誰も悪くない」常に彼が言っていた事です。
失礼な言い方ですが、運が悪かったのだと思っています。




あの時の3年生の卒業までの様子も、同じ校舎(新館)だったので目にしてました。




東洋牛久の中で、地道な練習を重ね、硬派で素晴らしい部だと思っています。

そしてあの時、よく生還してくれたと強く感じています。

どうぞ、もしかしたら…から離れて、3人は天命であったのだと…


ボート部の誇り、素晴らしいと思います。
はじめまして…
私は 多分 ボート部最盛期の頃の先輩方を知っています!
私は 女で ボート部が女子は無く 先輩に 練習挺に 載せて貰いました。

私は 弓道部で ボート部と先輩同士も仲良くて一緒に 遊んだりしていたものです!

事故や亡くなった事を、初めて知りました、ご冥福を お祈りします。

そして 生き残りとか 生き延びたではなく、大切な 命です、頑張って下さいね…
こんにちは。

事件当時の私は1年C組。亡くなった1人のS君と同級生でした。人懐っこいキャラでした。お葬式で見た顔は今でも脳裏に残ってます。事件直後、顧問だったら中西先生の涙が忘れられません。
また、友人ではなかったので苗字を覚えていないですがもう一人は、ワタシの所属していた吹奏楽部の女のコが密かに恋心をもっていたようで、事件直後しばらく声がかけられなかったことを思い出します。
そっか、あれからもう25年も経ったんだ。

東京から ご冥福をお祈りしております。
グース先輩>

88年入学です。
ミクシイは放置していたので、今更ながら気づきました。

亡くなった1年生の方の担任の一人が、
私の1年生の時の担任だったと記憶しています。

根本先生といいます。
まだ新人の時に受け持った教え子が事故で亡くなったことを、
ご自身のお身内の戦後中国からの引き揚げ体験とからめて
お話されました。
確か、子どもさんが泣いたり、弱ったりしたときに、海に突き落として
帰国した親御さんがいたという話だったように記憶しています。


16歳で亡くなった先輩方を忘れてはいけないと思って、その年のある時に
一人で霞ヶ浦に行って、花をささげてまいりました。
その後は、献花をすることはありませんでしたが、別の同窓生と話すときに
話題にしています。
2014年から、遠い話ですね。


根本先生は、英語の先生なのに白衣をお召しだったのを覚えています。
同僚の先生と結婚されて、別の学校で教鞭をとっておられるそうですね。

学校に慰霊碑のようなものは残っていないのですね。
そうならば、生きていく私たちが忘れないことが大事なのでしょうか。


>>[11] グースさま

ありがとうございます。
私も、1年の時はJ組だったんですよ。
85年と88年で、違いがあるのにね、
あのクラス分けは、どういう基準で決まっているのかなあと思うことがあります。

根本先生が担任の時は、彼女が26歳でした。
同級生の男子がいきおくれ、と言っていて、今考えれば相当失礼なセリフと
思います。今ならこのがきがあ、と言ってぶっとばします。

私も、学校が違うけれど牛久に自宅がある友達がいて、
文化祭に招き招かれたり、学校帰りにケンタッキーに寄ったり、
自宅に招かれて自転車二人乗りでパトカーに
威嚇されたりという楽しい日々を送りました。
その友達も9年前亡くなりました。
まだ32歳でした。


語り継ぐには痛みがある中、こうして語ってくださってありがとうございます。
私も、彼らを忘れません。


爆弾低気圧が日本各地をめぐる中で、29年目を迎えました。
今月2回土浦に立ち寄る機会がありながら、献花出来ませんでした。

職場の新聞縮刷版に、19日朝刊、夕刊の当時の記事を見つけました。
いずれも社会面の上部に掲載されていて、全国的に報道
されたのがわかります。

その日の午後3時に牛久在住のお一人が、19日の朝に
取手在住のお二人が助けあげられた関係で、夕刊までの
掲載となっています。

職場には3紙ありました。いずれも、県警記者クラブあたりから
発表された、同じ写真を使っていました。
3人揃っているのは1紙だけて、1人だけとても幼い、小学生
みたいな写真でした。
今年はうってかわって暖かい夜です。

事故から30年経ちました。
20日にホームカミングデーがあるので、その後に
霞ヶ浦に寄ろうか…。

忘れないからね。先輩。

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