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石原莞爾平和思想研究会コミュの白人帝国ロシア南下の脅威

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日英同盟は、帝国ロシアの極東進出政策への対抗を目的に、1902年1月30日に締結されました。その後、1906年の第二次、1911年の第三次と継続更新されましたが、1921年のワシントン軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って、1923年に失効しました。

日英同盟の背景には、ロシアを含む白人列強の熾烈な覇権争いと、その渦中で揺れ動く支那の状況があったのです。日英同盟の締結に至る前の極東の状況を考察すると1894年7月25日、「豊島沖海戦」によって日本と清は戦争状態に突入しました。

日本の帝国海軍連合艦隊が、牙山湾の豊島近くで清の軍艦二隻と兵力千二百を乗せた輸送船を、一時間二十分の戦闘で撃沈しました。清軍は、ソウルから南下する日本軍を成歓で待ち伏せし攻撃しましたが、兵力、火力、戦術で勝る日本軍に敗退し、平壌まで退却しました。これにより、日本は朝鮮半島の平壌以南の陸と海を制圧したのです。

1894年8月1日、日本と清は宣戦布告、日清戦争が勃発しました。日清戦争の原因は、朝鮮半島にありました。朝鮮半島がロシアや支那に侵略されると、その脅威は目の前に迫ります。だから日本は、朝鮮に日本のように近代化をして、しっかりとした政治力と外交力と軍事力を持って、独立主権国家になって欲しかったのです。

ところが、朝鮮は、清やロシアに媚びたりして、毅然と独立する状況になかったのです。日清戦争という名称ですが、戦場は朝鮮半島でした。三国干渉という白人列強の侵略行為、日本と清は、1895年3月20日に停戦。4月17日に下関の春帆楼で講和会議に臨んだ。日本側は首相の伊藤博文、外相の陸奥宗光が、清国側は李鴻章らが出席しました。

下関条約の内容は次の通りです。
壱、朝鮮の独立を認め、自主独立を妨げる朝鮮から清への貢、献上、典礼等を永遠に廃止する。
弐、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
参、清は日本に二億両を支払う。
四、清領内で列国と同等の特権を日本に認める。

朝鮮については、独立を認めることが条件だったのです。この日清戦争での日本の勝利を横取りしたのが、白人列強でした。ロシアがフランス、ドイツと結託し、日本に圧力を加えてきました。1895年4月23日、三国の公使が日本に対し「遼東半島を清に返還したほうがいい」と書簡を送ってきたのです。いわゆる三国干渉です。

国力の劣る日本は、白人列強の三国を相手に戦争をして勝つことなどできません。勧告を受諾するしかなかったのです。「臥薪嘗胆」―日本はあらゆる苦難を耐え忍んで、この屈辱を晴らす決意をしました。ちなみに、その後、この三カ国は清国に対し、この代償を要求しました。ロシアは旅順・大連を、ドイツは膠州湾を、フランスは広州湾を租借した。

ちなみにイギリスは、威海衛と九龍半島を租借しています。日本は、この三国干渉を通して、ロシアも含む白人列強がアジアを蹂躙する脅威を、まざまざと感じたのです。アジアを侵略していたのは、白人列強諸国だったのです。

日本は、自衛のために軍事的対応を余儀なくされたのです。マッカーサーが朝鮮戦争後に、アメリカの上院軍事外交合同委員会で発言した内容は、この点からも、極めて正鵠を射たものであったと言えます。「日本は、自衛のために戦争を公なくされた」

コメント(2)

なんか塾で大学生に教わったものと若干ちがいます。金が必要だった背景があるとか八幡製鉄所を、建設したとか言われたな?
イギリスからお金を借りて戦争したわけですから、日露戦争のときは、相手の出鼻をくじいて、勝負がある程度ついたら、優勢な段階で講和条約を結ぶというかたちの、一本勝ち、ないしは優勢勝ちでした。このときはアメリカが審判約になったわけです。

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