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石原莞爾平和思想研究会コミュのインド9千年の歴史

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英語やフランス語やドイツ語などを母語とする欧米の言語学者は、彼らにとっての高天原である印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)の故郷を探り当てることに執心している。かつては、5、6000年前の南ロシアあたりが原郷で、西に移動した人々がヨーロッパ人になり、南や南東に移動した人々がイラン人やインド人になった、といわれていた。

そのさいインドに侵入した人々、すなわちアーリー人がドラヴィダ人のインダス文明を滅ぼしたのだとも。しかし、最近ではこの説は斥けられ、かわって約9000年前のアジアの西端が有力視されている。

印欧語族に属する言語は何百とあれど、ドイツ語と英語のように、あるいはヒンディー語とベンガル語のように、隣あう地域によって、少しずつ違ってくる。その違いを生物学の系統分析の手法を応用して数値化した結果、インド・ヨーロッパ語族のセンターとして、現在のトルコやシリアあたりが絞り込まれたのだ。

その地で、ヤギやヒツジを飼い、大麦と小麦を栽培していた人びとが、ゆっくりゆっくりと、東西に拡散していった。村(同族で占められた「家」といってもよい)の人口が増えたため分家し、すこし離れたところに新たな村をつくる、といった感じの移動だ。平均すると、一年で一キロ動いた、といわれている。

その一派であるアーリヤ語を話す人びとが、分家に分家を重ねて、インド(現在のイラン、アフガニスタン、パキスタン)に少しずつ姿を見せはじめるのは、約6000年前のことだという。その後、エチオピアを故郷とする「セム系言語」を話す人びとの文化が拡大した。その代表的なものは現在のヘブライ語とアラビア語である。

結果、西アジアでは「印欧語」は衰退し、その名のとおりインドとヨーロッパに残ることになる。いっぽう考古学者は、バローチスターン(インダス下流域の西側の丘陵地域、現パキスタン)にインド文化の起点を置いている。やはり9000年前、この地の人びとは、泥を固めて家をつくり、ヤギとヒツジを飼い、大麦と小麦を栽培することをおぼえる。

7500年前、コブ牛が飼われ、土器が焼かれるようになる。煮炊きする調理は土器(土鍋)とともに始まる、と定義すれば、カレーの先祖にあたる料理はこのときから始まることになる。水やミルクや穀物を貯える壺は神聖視されたにちがいない。

植物や動物をデザインした彩文が施されている。彩文は、おそらくは、神への言祝を目に見えるカタチにしたもの。現在のヒンドゥー教にも見られるカラシャ(聖水をいれた壺)を神のアーサナ(座、ヨリシロ)とする文化も、このときから始まったのだろう。

やがて、人びとは、その神を直接目にしたい、という衝動に駆られることになる。泥をこねて焼しめる土器造りを同じ技法で、神の像が創られるようになった。初めの神は、女の姿をしていた。豊穣を約束する大地の女神であろう。ラクシュミー女神の起源もこのあたりに求められどうだ。

バローチスターンの人びととインド・アーリヤ語を話す人びとの関係は、定かではない。ひょっとしたら、イコールで結ばれるのかもしれない。後者が印欧語族の故郷を出発するのはもっと前のことで、九〇〇〇年前にすでにバローチスターンに到達していた、と。インドやパキスタンの学者の多くはそう考えているようである。

考古学の「9000年前」は遺物の年代測定から証明されるが、言語学のそれはあくまで仮説なのだ。ともあれ、インド・アーリヤ語とバローチスターンの文化が柱になって、いわゆる「インド五千年の歴史」のまさしく5000年前、インダス文明がスタートする。石原莞爾平和思想研究会顧問である、日本ヨーガ学会・田原豊道会長の40周年記念号から。

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