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石原莞爾平和思想研究会コミュの笑い連続の酒田裁判

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石原莞爾が吹浦海岸西山に移って間もない昭和22年5月1日に、極東国際軍事裁判の石原莞爾に対する出張訊問が行われることになりました。酒田商工会議所の二階が酒田特別臨時法廷となりました。臨時法廷は5月1日に開かれ、訊問は2日間にわたって行われた。

ニュージーランド代表判事ノースクロット卿を委員長として、検事、日本弁護人からなる嘱託尋問委員約60名を乗せた8両連結の特別列車は、前日の風もやんで珍しく静かな酒田駅に30日午前7時3分にすべり込みました。

一行にはノースクロットをはじめバニガン、フライシャー両検事、米側首席マタイス、ウォーレンレブイン、ウイリアムス日本側首席岡本敏男、阪野潤吉、金内良輔等弁護人、弁護判定官ムーア少佐、法廷書記通訳官、日本速記内外記者団一行は、先発の軍事裁判所主務ハーガドン中尉佐々川弁護人、本間重三酒田市長に出迎えられ、ナイス、モーニングを連発しながら、ノースクロット判事はまず酒田市長と握手、一行は酒田商工会議所の検分をかね、朝の港町に散歩に出かけました。

石原莞爾は、30日夕刻西山の茅屋から布団を敷いたリヤカーに乗り戦闘帽をかぶり黒いトランクを抱えて、自動車の待つ国道まで東亜連盟の父を含む同志に曳かれ、午後5時半ごろ酒田着、酒田ホテルに入りました。

当時石原莞爾は、痼疾の膀胱病をわずらって出血が多く揺れれば、危険な有様でした。頬の肉はそげて青白くゴマ塩髪がマバラにのび見るからに痛々しく主治医が長期旅行はできないという診断書を出したので、臨床尋問ということになりまた。

石原莞爾自身「身体は大丈夫、重大な問題だから何でも話す」と意気込んでいました。満洲事変から日中事変にかけての智将石原莞爾は5月1日酒田特別臨時法廷にリヤカーに曳かれて午前9時20分、和服着ながしのまま出廷しました。

9時半ハンレー中尉が開廷を宣し、判事、検事、記者、各国人が傍聴し勝利者が敗者に向って威圧する重苦しい空気の中に開かれました。検事「22年5月1日、極東裁判を臨時に酒田商工会議所に移して、将軍石原莞爾を呼んで訊問することになったことを宣言する」

判事「証人石原英語が分かるか」石原「日本語ならちょっぴり分かる」満廷爆笑。ノース裁判官「訊問の前に何か言うことがあるか」と。石原「ある、自分にはどうしても分からんことがある。 満洲事変の中心は自分である。錦州事変にしても満洲建国立案にしても自分が作成したものであるのに自分が戦犯にされないのはおかしい」

裁判官はあわてて 「ジェネラルは戦犯として調べるのではない。証人として調べるのです。 あなたは戦犯ではない」訊問は2日にわたって行なわれましたが、新事実は、石原莞爾の口から何も出ませんでした。

石原「満洲事変は、板垣その他の陰謀によるものではなく、いずれも本庄軍司令官の承認と意思にもとづいてしたもので、あくまで自衛権の発動であった」

石原「中国の軍隊の行動が積極的であり、われわれは向うから働きかけられることを余儀なくさせられるものと、考えていた。武力衝突必至ということは、決して働きかける意味ではない。結局は、向うからわれわれの弱点にぶつかってくるものであるという、恐れを持っていたのです。検事の仰しゃっていることば、武力衝突ということは、日本からケシかけて行くように、どうもお考えになるのではありますまいか。関東軍としては、河本大佐の事件、張作霖爆死事件があって河本大佐が処罰され、歴代の軍司令官が厳重に戒められ、こちらからは決して出してはいかぬ。もしそのかわりに向うがやって来たならば絶対引かない。こういう態度を持っていたのです」

石原は、A級戦犯に連なっている土肥原や板垣、橋本欣五郎大佐らの桜会や大川周明博士との関係を否定し、「土肥原は中国通として日本陸軍の第一人者であり、満洲事変は着任したばかりの時に起こったので、重大な役割をつとめなかった」と述べ、「一方、本庄、板垣は気の弱い人で部下の行動に関しては、思いきった断を下せなかった。それだけに人格的に立派な人たちです」と証言した。

石原莞爾は、満洲事変軍隊の前の張学良の政府や軍隊の排日毎日行為には眼に余るものがあり、邦人は一様に悲憤慨して、事変勃発の直後、本庄司令官が司令部を大連から奉天へ移す際、非常な激励をうけ、50万の近代装備を誇る張軍に対して、その50分の1の1万の劣弱装備の日本軍が、中央からの自重命令をうけたまま、非常な苦境に立っていた時に、柳条溝事件が起った、と述べました。

それに対して、ソ連のダニガン検事が尋問に立って石原莞爾に向い、「証人は私の質問に対して、イエスとかノーとか答えればよい」と釘を差したのち、「満洲事変における日本軍の損害の程度は、どうか」と質問しました。

石原は即座に、「被害の程度を言い現わす日本語には、あいにくイエスとかノーといった言葉はありません」法廷は再び爆笑に湧き返った。東京裁判が日本の事情を無視して行われていることに対する石原莞爾の皮肉であり、抗議でもありました。

判事は石原莞爾に同情して、検事が何か問うと再三「ストップ」を命じて「その質問は将軍を怒らすものであるから」とかソ連代表のダニガン検事の反対訊問に対してはしばしば検事の態度をたしなめ 「今の検事の尋問に答弁する必要なし」とか終始、石原莞爾びいきであったのです。

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