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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾の最後の時の証言

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石原莞爾の8月15日について、傍で看病していた同志である淵上千津氏はこう語っています。「将軍は苦しくなるから上を向いて寝てもいらっしゃれないのです。尿瓶を抱えて、浴衣一枚のような格好をして、背もたれて我慢してらした。 傷口に塩を塗るようなものですから、尿は塩分ですからね、痛いはずです。 それなのに、痛いとはおっしゃらない。」

「それでもお客様が毎日こられ、お会いになっておられた。普通の人だったら気が狂っていたと思います。それでもね、痛いとはおっしゃらず、看護する人に、逆にお疲れでしょう、と冗談を言ったりして気を遣っておられました。 家の外には西山農場の人、近くに住む人たちが心配そうに集まって来ておられましたが、私は傍にいたのです。」

「すると将軍は、まあだだよ!とお声を出される、今何時ですか、とおっしゃる。 4時何分とか言っていたら、 『もうすぐですね』とおっしゃった。それは引き潮のことですね。人間は引き潮の時に息を引きとる、といいますでしょう。」

「将軍はそのことを言ってらして、『さあ皆さん、お題目を唱えましょう』とおっしゃって、皆なで南無妙法蓮華経と、お題目を唱えたのですよ。将軍、自分の死に時をちゃんと読んでらしたのでしょうね。将軍が亡くなられて、身体をまっすぐにした時に、ああ、やっとお楽になられたな、と思いましたよ。どんなに、お辛かったかと思って」と言って泣いた。

終始、石原莞爾を看病し、酒田法廷では傍に座った看護婦で、父親で医師の小野誠淳と一緒に傍にいた小野克枝氏は、15日前後のことを次のように書き残しています。「十三日夜半から尿閉を起こし、十四日は午後になっても、お疲れがとれないかに思われましたが、夕刻すぎて背中が寒いといわれ、呼吸困難と胸部の圧迫を訴えられました。」

「高木、牛嶋、水越先生等が背中を、奥様が右手を、私が左手をしっかり握っておりますと、ひえびえと感じるので、おみ足にさわると冷めたく思われるのでした。閣下は常に、私どもに 『終わりの時は朧とご唱題なさるので、私どもも大きな声でご唱和致しました。』

「涙が出て声がつまると、閣下は、『泣くな!』と二度ほどおっしゃいました。そのうちに武田先生が来られ、つづいて皆様が駆けつけられました。 うなだれていらした閣下は、ぱっちりと眼をあけて、一人一人に握手をされて、『お世話になりました。サヨナラ、サヨナラ』と、あたかも旅にでも行くように、いちいちご挨拶なさるのでした」

農場で働く同志や、駆けつけてきた人たちと、石原莞爾は一人一人握手し、最後の別れをした。石原莞爾は皆んなと握手しながら「お世話になりました。サヨナラ、サヨナラ』と声をかけた。外で泣く声がすると、「もうお別れの人はないの?」と傍にいる小野克枝氏や淵上千津氏たちに声をかけた。

薄れゆく意識の中で、石原莞爾の脳裡には蒼い荒野が広がってきた。初めて渡った満州の大草原である。人々は飢え、夏は大豆畑に座り乏しい食にありつき、冬は寒波と雪の中で冬眠し、凍結した氷の川を襲撃する賊に食糧と子供を奪われ泣き崩れる親たちの姿である。

絶えず戦火の中で生き続ける運命の満州人、睡賊に追い出される日本人の居留民たち、ロシア兵の侵攻でシベリアからアムール川へ追い払われ、さらには満州里とウラジオストックから鉄道を伸ばして南の旅順まで占領するロシア軍の前に何も出来ない満州人たちの哀れな姿が甦ってきた。

さらには朝鮮半島に軍事顧問団を送り込んで半島を支配し、釜山に軍港を築こうとしたロシア軍の動きに、日本軍がやむなく旅順港を攻撃して始まったロシア戦争、その旅順に妻の銚子と出かけて官舎住いをした日々が、昨日のように甦ってきた。

あの頃の旅順と奉天のまちは治安に恵れ、多くの満州人と知り合い、歓迎された。まだ日本は旅順を中心とする小さな関東州しか支配していない頃で、大連も奉天も長春もハルピンも張作霖の息子張学良の支配下にあり、日本軍は鉄道の守備地に駐屯しているにすぎなかった。

日ごと満州の北部に居留していた日本人への迫害が強まり、多くの日本人が旅順に引き返す姿を見てきた石原莞爾は、列車で長春、ハルピン、吉林を訪れ、駅周辺を視察し、邦人の声を聞いて歩いた。

無法化した満州の治安を守るには日本軍の軍政しかないと気付き、彼の作戦で始まった奉天事件だったが、二十二万の張学良軍と二万の日本軍の戦いが終ってみると、これまで隠れていた反張学良派の満州人が現われた。

彼らに満州国の運営を譲った日から、石原莞爾は治安軍隊のみを置き、日本人は政治から身を退くことにしたが、この時、日露戦で日本軍の通訳官をしていた于忠漢との出会いが、五族協和と政治思想団体の協和会の創設になった。あの日から満州は、五族の協和国家の理想に燃えていた。

五色の国旗が街道に飾られ、人々は張学良の過酷な支配から解放され、子供たちは教育を受け、新設された各種大学に進む者、満州国軍学校に入隊する者、日本企業に転職する者、飛行機製造、自動車工場で働いて収入を得る者など、経済的に豊かになり、また二つの巨大な水力発電所から生れる電力で、各家庭に電灯がともり出して、どの家も心までが豊かになっていった。

しかし石原莞爾が去ってからの満州は、次第に日本軍による植民地化が進み、日本式の法律で満州人の生活が拘束され、人々の顔から笑いが消えはじめていた。形なりとは言え、満州人は豊かになり、満州国の軍隊も育ち、ひとつの国家になった。石原莞爾が築いた満州国は、神武天皇に次ぐ建国であったが、思い違いをした日本の軍政になり下がっていた。

八月九日、戦力が衰えた満州国ヘソ連軍が侵攻し、無力化した満州国は共産化され消滅していった。かつて喜びに満ち溢れた満州人の姿は、もはやこの地上から消えていった。お題目を唱えていた時である。 石原に奇蹟が起きた。脈がしっかり打ち返し始めたのである。

足も暖かくなってきた。すると石原莞爾は、「ながびくのなら、御題目の御利益も迷惑だな」と冗談を言った。そのあと 「ながびくらしいから、治療する人だけ残って、皆さんにひとまずお引きとりいただこう」と言った。狭い部屋には小野父娘、妻鏡、武田、淵上など看護する人だけが残り、他の人たちは家の外で、声に出して、南無妙法蓮華経と合唱した。

西山一帯の松林は、この夜半から明け方にかけて、南無妙法蓮華経の読経が大合唱された。その合唱は月光川を渡り遊佐町一帯まで風に乗って広がった。淵上千津氏に背負われた幼児に声をかけたり、懐妊中の女性のお腹をなでて別れをつげる石原莞爾の容態が急変しはじめたのは、十五日午前二時頃だった。

石原莞爾は淵上千津氏の口述にもあるように、この頃から、しきりに時間を気にしはじめた。「四時をうつと、お苦しかったのか、五分置きぐらいに時間をお聞きになっては、ぐったりとうなだれるのでした」と小野克枝は臨終前の様子を語っている。

石原莞爾が最後に時間を聞いたのは、午前四時三十五分だった。静かに目蓋を閉じていた石原莞爾の手が、ぐっと力がこめられた。その直後、痙攣が走り、のけぞった。呼吸が止まった。右手首を押さえていた小野克枝氏の指は、脈がとまったのを確認した。「午前四時五十五分でした」と小野克枝氏は語っている。

淵上千津同様、小野克枝氏も妻銻も、仰向けになって体を伸ばせた石原莞爾の姿を見たとき、「やっと、お楽にられた」と泣いてしまった。妻の銻は思わず、「痛いなら痛いって言わせてあげたかった」と声に出し、その場で泣き崩れた。石原莞爾は、日蓮聖人と同年令の六十歳と七ヵ月の生涯を、西山農場の小さな自宅で閉じた。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

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