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石原莞爾平和思想研究会コミュの永久平和を願った満州事変

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満州事変の第一の目的は、在満三千万民衆の怨府となっていた東北軍閥を打倒し、ソ連の東亜侵略に対する強固な防衛体制を確立することであり、第二の目的は、永久平和への関門として近迫する最終戦争に必勝を期すため、満州の新建設によって精神的、物質的準備を進めることであった。

当時、満州侵略は、ソ連のロシア帝国以来の伝統的政策であり、中国はこれを阻止する実力をもっていなかった。米国は日本を中国から駆逐する政策をとり、東北軍閥を強力に支援しつつあった。また、これより先、欧米先進諸国がアジア、アフリカを植民地として分割し、闘争し、日本自身も明治時代の前半までは、植民地化される危険に直面していた。

これらは、こんにち世界のすべての国々と心から平和と協調に努力すべき永久平和の理想とは別に、直視を怠ってはならない歴史的現実である。
石原莞爾は最終戦争に勝利する準備として、
1、ソ連の陸軍を防ぎ得る陸上武力
2、米英連合の海軍を防ぎ得る海上武力
3、世界最優秀の空軍力
をもつべきものと考え、この体制を整備するために満州の確保が絶対に必要と考えた。

石原莞爾は、陸軍大学校における『欧州古戦史講義』およびその主著というべき 『戦争史大観』と『最終戦争論』の双方において、涅槃経および日蓮聖人遺文を引用し、永久平和の実現は武力ないし政治力の公正な運用なしには不可能であり、最終戦争の勝利、永久平和の実現は、この教えによってのみ期待し得ることを強調している。

「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾を持すべし」「五戒を受持せん者あらば大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名付く。正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし」「兵法剣形の大事もこの妙法より出でたり」石原莞爾の最終戦争準備がつねにこの教えを遵守していたことはまちがいないであろう。

次に、石原莞爾が満州事変の頃までは、『満蒙領有論』を強硬に主張していたことはよく知られているが、これも単純に主張されたのではない。石原は日本の敗戦に到るまで、満州が満州民族、蒙古民族の故郷であり、朝鮮民族も古くから水田開拓の実績を残し、日本もまた日露戦争によってロシアの侵略を排撃したし、漢民族はもちろん、三千万民衆の大部分を占めており、五民族それぞれに、満州には応分の発言権をもっている、という趣旨の主張をしていたが、敗戦後、占領軍当局によって東亜連盟同志会が解散させられたことに抗議した『東亜連盟』と題する文章では「満州事変を契機として実力を以て満州を支那より分離する行動は、重大なる暴挙なるは明なるも云々」と述べており、すべて石原莞爾の本心と思われる。『満蒙領有論』はこの間に深い祈りから生まれた。

石原莞爾はすぐれた精神的自叙伝といわれる『戦争史大観の由来記』に「昭和二年の晩秋、伊勢神宮に参拝のとき、国威西方に燦然と輝やく霊威をうけて帰来。当時の厳粛な気持はこんにちもなお私の脳裡に鞏固に焼きついている」と記し、「国威西方に燦然と輝やく霊威」については、かれが心から愛した若き信仰者、伊地知則彦の質問に対し「眼前に地球の姿が浮かんでみえ、日本から金色の光が満州に向かって光り渡った」と答えている。

石原莞爾が『最終戦争論』に確信を得たのは、大正十一年から十四年にいたるドイツ留学期においてであるが、帰国後、大正十五年から昭和三年にかけ、陸軍大学校で最終戦争を結論とする欧州戦争史を講義し、その準備のため、元年から二年への冬休みは千葉の日蓮聖人の聖蹟にゆき、二年から三年への冬休みは伊豆の聖蹟にいって資料を整理し、構想をねることに熱中した。

そしてこの講義の結論で、日蓮聖人の主著『撰時抄』における最終戦争の予言、および「観心本尊抄』における人類救済の賢王出現の予言を引用し、永久平和の使命達成に関する確信を吐露しているこのような状況の中で、石原は伊勢神宮に参拝し、前記の霊威を受けた。

そして昭和三年三月には、関東軍参謀に転補の内命、中耳炎の難病治療のため十月赴任となったのである。石原莞爾は霊威を自分の熱願に対する本化上行菩薩、日蓮聖人の大霊の激励と拝したにちがいない。なぜなら、石原莞爾の信仰によれば、人類救済の賢王は日本国の皇室に出現することになっており天照大神はその守護神と信じられているからである。

石原莞爾にとり、満州事変も満州建国も、最終戦争準備のためであり、日蓮教徒としてのひたぶるな信行に他ならなかった。当時の世界および東亜の現実に照し、石原莞爾が主として陸軍部内を対象として執筆した『満蒙領有論』等を、石原莞爾の心の深層を理解しないで単純に大陸侵略の主張と解することは重大な錯誤である。

石原莞爾が陣頭に立った満州事変は、昭和三年六月、張作霖を爆殺した河本大作と意志の相通ずることなど、あり得ないことである。石原莞爾は後年、もし自分が中耳炎の難病に罹らず、満州赴任が遅れていなかったら張作霖爆殺に関与せざるを得ず、関東軍を去っていたであろうから、満州事変にも、満州建国にも、もちろん東亜連盟の発端にも参画できなかったろう、という意味の深い感慨を洩らしている。「石原莞爾のすべて」仲條立一著

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