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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾は和平を諦めなかった

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石原莞爾は、和平を諦めませんでした。事態が一時、小康状態に入った7月末、石原莞爾は天皇に拝謁し、外交交渉による事変解決を奏上したのです。これを受けて、陸軍省軍務局軍務課長の柴山兼四郎は、外務省東亜局長の石射猪太郎に外交解決案を作成するよう要請したのです。石射は、王道アジア主義者を輩出した東亜同文書院の出身です。

8月初めに、石射の構想をベースに解決案がまとめられました。この解決案を中国側に伝える役割を託されたのが、元外交官で在華日本紡績同業会総務理事の船津辰一郎です。石射たちのシナリオは、船津を国民政府外交部亜洲司長(アジア局長)の高宗武に接触させ、一私人として、日本政府が考えている和平条件を伝えるというものでした。

船津は8月4日に東京を出発し、7日上海に到着しました。ところが、ちょうどこの時、盧溝橋事件前に華北出張に出かけた駐華大使の川越茂が上海に戻ってきて、和平条件は自分が高宗武に伝えると言い出したのです。こうして、日本側の和平条件は川越・高宗武会談に委ねられたのです。

しかし、8月13日には戦火が上海に飛び火し、船津工作による和平構想は頓挫してしまいます。石原莞爾が言います。「日本は日清戦争以前にまで逆行するぞ」こうした中で、国民の間にも「暴支鷹懲」の声が高まり、戦線拡大論が優勢となっていく。

8月15日、近衛内閣は「支那軍の暴戻を膺し、以て南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり」との声明を発表、いよいよ日中の戦争状態は決定的となったのです。陸軍次官が予備役の松井石根を呼び出したのは、その前日の8月14日のことです。

松井は、8月20日上海派遣軍司令官として二個師団を率いて上海に向けて出港しました。あちこちの駅頭から毎日のように出征兵士が出発、前年から国会議員になっていた木村武雄も友人たちの出征を米沢駅頭で見送ったのです。プラットフォームでは、兵士たちの出征を祝う「万歳 万歳」の声が鳴り響いたのです。

しかし、木村は何かひっかかるものを感じていたと言います。そこで、木村は9月に入ると、参謀本部に石原莞爾を訪ねました。待ち構えていたかのように、石原莞爾は木村武雄にこう語りました。

「君、この戦さをこのままにしておくと、日本は日清戦争以前にまで逆行するぞ。 だから、どんなことをしても戦いを止めさせなければならないが、金鵄勲章とりにはやっている軍人は、軍人として止めさせるわけにはいかんのだ。ここは政治の力で抑えてもらうほかない。 今こそ君たち政治家が働く絶好の機会じゃないか」

石原莞爾の言葉を聞いた木村武雄は、強い危機感を抱き、ただちに戦争不拡大のために動いたのです。戦争の抑止を国会議員に呼びかけ、「中国問題研究会」という組織を発足させたのです。 第一回の会合は丸の内の料亭「常盤」で開かれ、約150名の議員が集まった。

昭和12年末、木村武雄は戦争の現状を自分の目で見るため、中国に渡りました。木村武雄は日本軍がいかに支那軍に苦戦を強いられ、いかに無謀な戦さを進めているかを知らされました。木村武雄は上海から南京、漢口と、時間の限り踏査し、事変の解決には石原莞爾の唱導する「東亜連盟」を起こす以外に道はないと考えるようになっていくのです。

同じ頃、神道家の葦津珍彦が中国を訪れ、惨状を目撃したことは後述します。木村武雄は戦争不拡大に動いたものの、木村武雄との会見直後、石原莞爾は関東軍参謀副長として満州に転出されてしまいました。この人事について、石川正敏は「統制派軍閥」による策動だったと指摘しています。すべてを読むには「木村武雄の日中国交正常化」坪内隆彦著

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