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石原莞爾平和思想研究会コミュの日中戦争が泥沼化した理由

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華北での総攻撃開始後も、石原莞爾はなおそれ以上の拡大を抑制し、中国側との講和によって事態の収拾をはかろうとしました。 だが石原莞爾が和平の条件として考えていた華北の政治的権益の放棄は、武藤や田中など幕僚層のみならず陸軍首脳部にも受け入れられず、戦争は拡大していくのです。

局地的な戦闘で終わらせようとしていた石原莞爾に対して、武藤章は華北での全面戦争もやむなしとの態度でした。ただ、武藤章も当初は戦争が上海・南京など華中にまで拡大することは必ずしも望んでおらず、華北での中国軍主力を壊滅させることで中国側を屈服させたいと考えていました。だが、戦火は上海にも拡大します。

石原莞爾は、不拡大の方針から上海への陸軍の派兵には反対しました。これに対抗して武藤章は、陸海軍一致による打撃を中国軍に与える必要があるとして、上海派兵に積極的となったのです。石原莞爾も、海軍からの強い要請に、やむなく派兵を了承します。その後も石原莞爾は、上海での戦闘を早期に収束させ、講和に進みたいと考えていました。

だが中国側の全面的な抗戦によって日本軍は苦境に陥り、武藤章らはさらなる陸軍増派を主張します。石原莞爾も上海戦線の状況悪化によって、ついに増派を認めざるをえなくなるのです。こうして、華北での戦線の拡大と、上海での中国側の強力な抵抗によって、石原莞爾の不拡大方針は事実上破綻していったのでした。

その間、石原莞爾は一貫して華北の特殊権益放棄による中国側との政治的妥協を主張しますが、もはや軍上層部にもまったく受け入れられず、ついに石原莞爾は失脚するのです。このように、石原莞爾の対中政策を破砕し石原追放に成功した武藤章は、華中への戦線の拡大とともに、華北分離のみならず、蒋介石政権そのものの全面的屈服へと進んでいく。

それによって中国側の反日姿勢を転換させ、華北にとどまらず中国全域の資源・市場掌握への足がかりを確保しようと考えるようになるのです。武藤章も、華北分離政策策定当初は、必ずしも武力による華北分離の実行を望んでおらず、政治・謀略工作によって政策意図を実現しようとしていました。

国際関係への考慮や、対中戦争となった場合、ソ連による軍事介入を警戒していたからです。だが、中国側の抵抗などによって華北分離工作は容易に進捗せず、さらに石原莞爾によって華北分離政策は中止されました。

そこで武藤章は、ソ連国内の混乱と盧溝橋事件を契機に、石原莞爾の対中政策を打破し、華北分離を実現しようとして、石原莞爾の反対する対中軍事行動に踏み切ったのです。したがって事変当初の武藤章の意図は、一撃によって華北分離を南京国民政府に認めさせ、華北の資源や経済力を確保することにありました。

そして、それを足がかりにして、さらに国民政府自体の反日姿勢を転換させ、華中の資源や経済力の掌握に進んでいこうとしていたのです。だが、予想以上の中国側の抵抗を受け、武藤自身も当初想定していなかった上海・南京での戦闘となっていくのです。

この段階では、武藤章も国民政府を全面的に屈服させ、一挙に華北華中を日本の勢力圏下に置こうとするようになります。だが国民政府の執拗な抗戦意志によって、戦線はさらに拡大し、戦争は長期の持久戦となり泥沼化していくのです。

このように日中戦争は、その発端においては、陸軍内の政策対立に起因するもので、武藤章らが石原莞爾の政策的指導権を破砕しようとしたことが重要な動因になっていました。 武藤章ら拡大派も、事変当初は、中国の植民地化や領土分割を企図したというより、華北分離を実現し、それを国民政府に認めさせようとするものでした。

だが、中国側抵抗力への過小評価と、石原莞爾に対抗しその対中政策を打破しようとして、当初の華北分離の意図を超えて事態を拡大させ、戦争目的を広げていったといえます。

コメント(2)

別にタクさんが悪いわけではないがなぜそうなってしまったのか?今でも疑問点です。
>>[1] その時の国民もマスコミも政治家も軍部もすべて悪かったのでしょう。

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