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石原莞爾平和思想研究会コミュの日中戦争をめぐる石原と武藤

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石原莞爾と武藤章は、かつては良好な関係にありました。たとえば、二・二六事件の際には、自宅で事件の一報を受けた石原莞爾は、すぐに武藤章に電話で連絡しています。事件収拾後に石原莞爾が辞職願いを出した日にも、帰宅後すぐ武藤章から電話があり、辞職を引き留めようとしました。

この時、石原莞爾は参謀本部、武藤章は陸軍省に所属しており、このようなコンタクトは職務上の関係からというよりは、個人的な関係によるものといえます。また、その後の粛軍人事や軍部大臣現役武官制の復活、宇垣一成内閣の成立阻止などでも、石原莞爾と武藤章は協力して動いています。

参謀本部作戦課長だった石原莞爾の軍備増強計画についても、武藤章は、軍事課高級課員として陸軍省側から予算編成上、その実現に尽力していました。石原らが計画していた満鮮八ヵ師団整備に大体の基礎を置きまして、当時軍事課の高級課員でありました武藤章中佐は、軍事予算・最高13億円と致しました。

これは当時としては飛躍的なものでした。陸軍は内閣に対して武藤中佐の研究された数によって軍事予算を要求しました。それが、この時期には両者は厳しい対立関係となり、ついに武藤らが石原莞爾を陸軍中央から追放するかたちとなったのです。のちに武藤章は自ら「僕は上官である石原部長を追い出した」と語っています。

二人の違い 投入する兵力量では、この石原・武藤の対立は、なぜ起こったのだろうか。武藤は1892年熊本生まれで、石原莞爾より3歳年下です。日中戦争開始時は44歳だった。陸大卒で、石原莞爾とドイツに駐在経験あり、その時期が重なり当地で交流もあった。

陸軍では、人物評価に軍内学校成績が重視されていたので、その順位をみると、石原莞爾は、仙台幼年学校首席、中央幼年学校三位、陸軍士官学校三位。武藤章は、熊軍大学二位、本幼年学校三位、中央幼年学校不明、陸軍士官学校七位、陸軍大学五位です。もっとも重要視される陸大成績は、ともに優秀卒業者でした。

その両者の考えの異同はどのようなものだったのだろうか。まず、現実の事態認識からみていくと、日中軍事衝突中におけるソ連の軍事介入を警戒する点については、両者は共通していました。武藤章は赤軍幹部粛清など国内の混乱によって、11月までは、介入はないだろうとみていました。

また、石原莞爾の回想によれば、参謀本部情報部ロシア課は、ソ連は当面は介入してこないが、戦争が長引けば介入するだろう、と判断していました。それは石原自身の意見でもあったようです。おそらくロシア課の判断が、石原・武藤に共有されていたものと思われます。

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