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石原莞爾平和思想研究会コミュの226事件をめぐっての対応

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二・二六事件の時、石原莞爾は参謀本部作戦課長、武藤章は陸軍省軍務局員であって所属する役所は違っていましたが、共に鎮圧に顕著な功績があったことで知られています。しかし事件への対応にはかなりの違いがありました。

相沢三郎の永田鉄山殺害事件以後、統制派の中心人物となった武藤章には皇道派青年将校に対する同情など微塵もありませんでした。それに対し、石原莞爾には満州事変以来、本来が昭和維新の必要を痛感していました。

二・二六事件に決起した青年将校達の志を少しでも生かしたいと思うところがあり、それが26日の青年将校との対応や、帝国ホテルでの橋本欣五郎とのやりとりに表れていました。ただ、27日早朝、天皇の明確な鎮圧意志を聞いて以後の石原莞爾には迷いはありませんでした。投降か、さもなくば武力鎮圧ということで石原莞爾の示した断固たる態度が事件を解決に導いたことは良く知られるところです。

翌28日午前5時8分「奉勅命令」が出されて、叛乱軍の運命が決まりました。これで青年将校等は「逆賊」となります。その間に、佐倉、甲府、宇都宮、高崎の部隊が、続々入京して来ました。東京戒厳司令官香椎浩平は閏年の29日午前9時をもって、一斉に攻撃に入ることを布告しました。その前夜には戦車隊が叛乱軍を包囲し、航空機から有名なビラがまかれました。叛乱軍の兵力約1550人に対するに、包囲軍は2万4000人です。

これは当時評判となり「今からでも遅くない」は流行語となりました。こうして将校も兵も投降をはじめました。午後1時すぎ安藤輝三が自決して、投降はほとんど終わりました。将校だけは陸相官邸に集められ、野中四郎はここで自決した。自決者が少なかったのは、法廷闘争に希望をつないだためといわれています。

この29日朝、包囲軍から1発の弾丸も発射されることはなかったのです。ここにいたる28日の午前中、石原莞爾がいきなり真崎甚三郎を面罵する事態がありました。石原莞爾は叛乱軍の将兵が純粋に国を憂える心情には同情すべき点があった。それにつけても石原莞爾には、ここまで信じ込ませた真崎に対して腹に一物があったのです。

真崎が荒木貞夫とともに戒厳司令部にあらわれ、皇軍が相撃つことだけは絶対に避けねばならないと繰り返しました。戒厳参謀である石原莞爾も、もちろんそのつもりです。石原莞爾には真崎がこの事件の元凶であるくせに、抜け抜けと将校を諭すのを見ると、怒りがこみあげ「こんな馬鹿大将が勝手なまねをする(総理大臣になろうとする)から、こんなことになるんだ」それが衆人の前です。

前々から石原莞爾とそりの合わなかった真崎大将は激怒して「上官に対し、馬鹿大将とは何か。軍紀上許せぬ」石原莞爾も後にひかずに「軍紀を乱しているのは誰だ。だからこんなことになったんだ」と。それを見かねて安井参謀長が止め男に入ったのです。

事件解決後の31日、出勤した石原莞爾は辞表を提出し、すぐに帰宅しました。間もなく武藤章から電話があり辞表を撤回するよう説得されたようです。電話のやりとりを聞いていた弟の六郎は石原が「バカなことをいうなッ、武藤君! 私は何も自分の一身をいさぎよくしようなどという気持ちなどではないのだ。この際、中央にいる課長以上のものは全部、責任をとって現役を引けというんだ」と言っているのを聞いたと書いています。

この電話には両者の立場の違いがハッキリ表れています。武藤章には鎮圧に良心の痛みはなかったのに対し、石原莞爾には反乱将校たちに対する同情の気持ちがあり、それが責任感の違いになっていると思われます。

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