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石原莞爾平和思想研究会コミュの日英同盟はなぜ締結されたのか

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1895年の日清戦争で、日本に清が敗れると、支那大陸に白人列強が勢力を伸ばすことになりました。清政府は、日本への賠償金の支払いのためにロシアとフランスから借款をしたからです。見返りに両国は、清に対し様々な利権を要求しました。

こうして列強諸国による支那の分割が進み、アヘン戦争からイギリスの半植民地となっていた清の状態が一変したのです。ロシアは、満洲北部へのシベリア鉄道施設権を得ると、満洲や支那の北部へ強行に侵入してきました。

フランスは、フランス領ベトナムから侵出し、雲南、広西、広東、四川など支那南部を勢力圏としていきました。イギリスは、支那大陸で、北はロシア、南はフランスに挟まれるという状況に陥ったのです。両国は、1883年に露仏同盟を締結、三国干渉など支那分割でも密接に連携していました。

イギリスは、清の領土保全を訴え、ロシアとフランスが支那大陸でイギリスの権益を犯すことを防ごうとする一方で、ドイツと連携し、ロシアとフランスに先んじて対日賠償金支払いのための新たな借款を清に与えました。これにより、イギリスとドイツは清における権益を認めさせたのです。

1896年1月、イギリスはフランスとも協定を締結、四川と雲南を門戸開放することを約定し、フランスの北上に歯止めをかけました。1897年、ドイツは山東でドイツ人のカトリック宣教師が殺害された事件を口実に、清に出兵、膠州湾を占領し、同地を租借地としました。

イギリスは、ドイツがロシアの南下の防波堤になると歓迎しましたが、その後ドイツが山東半島をドイツの勢力圏と主張したために、ドイツへの警戒を強めました。1898年には、遼東半島の旅順をロシアが占領、さらに大連に軍艦を派遣し、旅順と大連もロシアの租借地としてしまいました。

ここに至ってイギリスは「清の領土保全」という建前を翻し、砲艦外交に転換。ロシアが旅順占領をやめるまでを期限に、山東半島の威海衛をイギリスの租借地としたのです。イギリスは、ドイツが山東半島を勢力圏とすることは認めました。

これは、ドイツのロシア、フランスとの連携を防ぐためでした。しかし、このことでイギリスは揚子江流域へのドイツの進出を容認することになりました。清の人口の3分の1が揚子江流域で暮らしており、イギリスとしては痛恨の譲歩となったのです。

二十世紀になると、ロシアの脅威はさらに高まりました。1900年に義和団の乱が起こると、ロシアは満洲を軍事占領しました。その後、ロシアは満洲からの撤兵を約束したものの、いっこうに撤兵せず、さらに南下して朝鮮半島にも触手を伸ばすようになりました。

ここに至って、日本とイギリスは、ロシア南下を両国にとっての脅威と感じるようになりました。日本の政界では、伊藤博文や井上馨らはロシアとの妥協を模索しましたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義らは、ロシアとの対立は不可避として、イギリスとの同盟を訴えたのです。

これが、日英同盟の締結前の日本を取り巻く情勢です。日本の日英同盟締結も、白人列強の脅威が迫る中での、安全保障上の選択だったのです。しかし、日英同盟の廃止を最も望んでいたのは、アメリカでした。どうしてもアメリカは日本と戦争をしたかったのです。

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