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石原莞爾平和思想研究会コミュの真珠湾の奇襲はアメリカの罠

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日本では、真珠湾攻撃が帝国海軍の奇襲のように言われています。日本の史家の中には、「真珠湾の奇跡」とまで表現する者もいます。はたして、そうなのであろうか。大日本帝国海軍の動きは、アメリカの諜報活動によって、把握されていました。

つまり、日本軍の真珠湾攻撃は、アメリカの中枢では奇襲でもなければ、騙し討ちでも、全くなかったのです。確かに、大日本帝国海軍の技術の素晴らしさは、ルーズベルト大統領や「罠」を仕掛けたアメリカの諜報活動の仕掛人たちをも驚かせたかもしれません。日本軍が想定外の戦果を挙げたからです。

水深の浅い真珠湾で、魚雷攻撃を成功させるために、魚雷に羽をつけ、水中に入った魚雷がすぐ浮上するようにした日本の技術開発や、超低空飛行で海面すれすれまで降下し、魚雷を投下する雷撃機パイロットの技術などは、アメリカを唸らせました。しかし、真珠湾攻撃それ自体は、アメリカの罠でした。まさに日本は、罠に嵌められたのだったのです。

森村正は、若干27歳で、日本領事館の一等書記官としてハワイに着任しました。本名は、吉川猛夫。江田島の海軍兵学校を卒業し、少尉に任官しました。彼は、オアフ島で、太平洋艦隊の動きを監視し、帝国海軍が「敵太平洋艦隊」の拠点である真珠湾を「奇襲攻撃」するための情報収集を行っていたのです。つまり、日本軍のスパイです。

ハワイでの日本軍スパイの監視は、1936年8月10日から開始されていました。セオドア・テッド・エマニュエル海軍一等下士官は、海軍の秘密情報チームの一員である米海軍上級秘密工作員として、ホノルルに寄港する日本船は、全て調査するように命令されていました。

実は、森村正は、新田丸に乗船し東京からホノルルへ向かった、すでにその時から、追跡されていました。なんと、森村正がオアフに着く前日の1941年3月26日に、アメリカは、大きな決断をしました。海軍情報部長のウォルター・アンダーソン少将は、「スパイ捜査の指揮は、連邦捜査局(FBI)ではなく、海軍で行う」と、方針転換を発表したのです。

連邦捜査局のエドガー・フーバー長官は、「捜査はアンダーソン自らが行った」と示唆しています。海軍捜査官のデンゼル・カー大尉とエマニュエルは、森村正をマークするために、ホノルルに到着する新田丸を待っていました。下船者のリストにある33名の中に、森村正の名前がありました。カー大尉は、検疫官を装っていました。

エマニュエルは、隠しカメラを持って桟橋にいました。午前6時、新田丸が桟橋に着くと、カー大尉が新田丸に乗り込みました。ハワイ王朝最後の女王リリオカラニが作曲した「アロハオエ」を、ロイヤル・ハワイアン・バンドが演奏する中、午前8時45分ごろ、森村がタラップに姿を現しました。カー大尉が船から手で合図をしました。

すかさずエマニュエルは、シャッターを切りました。二人はすぐに、米海軍情報部の支部に戻りました。翌3月28日、写真に撮られた森村正は、「海軍のA級スパイ容疑者」としてリストに加えられたのです。森村は、日本外務省の「津暗号」を使って、真珠湾に停泊する太平洋艦隊の情報を、日本の外務省に送っていました。

八カ月、森村はせっせと真珠湾の情報を日本外務省に送っていたのですが、アメリカの暗号解読班は既に「津暗号」を解読しており、その内容は、把握されていたのです。日本では、森村のスパイ活動が、真珠湾の「奇襲」を起こす重要な情報をもたらしたとされています。しかし、これも虚妄でした。

アメリカは、森村をスパイと認知して、あえて泳がせていたのです。日本が、どのような動きにでるか、いつ、真珠湾を攻撃してくるかを、正確に把握するのが目的です。1941年12月3日、森村は、それまで使っていた「津暗号」ではなく、PAと呼ばれる単純な外交暗号に突如切り替えて、最後の通信を行ないました。

もちろん、PAもアメリカの暗号解読班は、解読済でした。3日に発信した森村の極秘電文は、その日のうちに解読され、翻訳されていました。こうした背景は、『ディ・オブ・ディスィート』(邦訳『真珠湾の真実――ルーズベルト欺瞞の日々』文藝春秋社刊)に書かれています。ぜひ詳細は、スティネットの本を読んで頂きたい。

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