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石原莞爾平和思想研究会コミュの白人によるフィリピン侵略

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世界一周に挑戦したマゼランは、太平洋を横断しフィリピンに至って土人に殺されました。これが一般的な歴史の記録です。しかしフィリピンでは歴史は異なります。マニラ市の中心街、マカティ地区の目抜き通りには、ラップラップ酋長の大きな銅像が建っています。

フィリピンの歴史の教科書では、ラップラップ酋長は「西洋勢力と戦って勝利したアジア最初の英雄」「マクタンの戦いは、フィリピン人が外国の侵略者から島の独立を守ることに最初に成功した重要な記録である」と書かれているのです。

フィリピンから見れば、ラップラップ酋長は英雄なのです。征服者スペインは、1571年にルソン島のマニラに首都を建設しました。マニラはもともとイスラム教が盛んでした。そこに新たにキリスト教の首都を建設したのです。

フィリピンという国名も、1593年に、スペインのフィリップ皇太子の名にちなんでつけられたものです。スペインの輝かしい侵略の象徴です。それから約三百数十年間、スペインは民衆を弾圧し搾取する植民地政策を実施しました。

米西戦争で、アメリカがスペインにとって代わりました。1898年、スペイン領キューバで独立運動が起こりました。アメリカは、キューバのトウモロコシ農業、タバコ産業の利権を守るために戦艦メーン号を派遣しましたが、スペインに撃沈されてしまいました。

4月、アメリカはスペインに宣戦布告、米西戦争が勃発したのです。アメリカは、極東艦隊をフィリピンに派遣、スペインの「無敵艦隊」を撃破しました。アメリカ極東艦隊のデューイ提督はマニラ湾に入ると、フィリピン独立軍を支援すると宣言しました。

アメリカ軍は、香港に亡命中のアギナルドを軍艦に乗せてフィリピンに連れ戻し、革命軍最高司令官としました。革命軍司令官だったリカルテ将軍は、アメリカを信じて独立戦争を戦い、ついにスペイン軍は撤退し、8月に首都マニラが陥落しました。

ところが、いざフィリピン独立軍がマニラに入城しようとすると、アメリカ軍はそれを許さず、単独で入城したのです。独立軍は、フィリピン独立の大義が大切と考え、新首都をマロロスにし、新憲法も制定しました。こうしてフィリピン共和国が正式に発足、アギナルドが大統領、リカルテが国軍総司令官に就任しました。

10月にパリで米西戦争の講和会議が行われました。アギナルド大統領は特使を派遣し、フィリピンの独立を主張させようとしました。すると、なんとアメリカはそれを拒否したのです。講和会議では、アメリカのフィリピン領有が締結されました。キューバも、この講和会議でアメリカの保護領とされたのです。

つまり、アメリカがフィリピンの独立を支援するなど真っ赤な嘘で、フィリピン共和国など認めるつもりは端からなかったのです。アメリカがスペインから植民地を略奪するための口実に、独立軍は利用されたのでした。

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