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石原莞爾平和思想研究会コミュの支那事変は侵略戦争ではない

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1937(昭和12)年7月7日、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊は、中国軍第二十九軍に事前通告をして、盧溝橋城に近い河川敷で夜間演習をしていました。午後10時40分、数発の弾丸が日本軍に撃ちこまれました。さらにその後、10数発の発砲が、別(土手)方向からありました。

銃撃は執拗で、翌早朝3時25分に3回目、5時30分に4回目の銃撃があった。ここで、日本軍は初めて反撃を開始しました。最初の銃撃から、なんと7時間後のことです。この銃撃が、中国共産党による挑発であることは、現在100パーセントハッキリしています。

最初に撃ってきたのは、共産党でした。遠藤誉氏は、著書『毛沢東』でコミンテルンの策略について「なんとかして国民党政府を日本と戦わせ、戦力を消耗させてから国民党を打倒し、共産党の国家を創ることを目指したものです。これが事実上コミンテルンのトップに立っているソ連のスターリンの考えである」と論じています。

世界の情勢を勘案し、日本軍は中国との戦争を進めるつもりは、全くなかったのです。7月11日に停戦協定に至っています。内容は次の通りです。1、中国側が責任者を処分する。2、将来再び、このような事件が起こらないように防止する。3、盧溝橋及び龍王廟から兵力を撤退し、保安隊をもって治安維持にあたる。4、抗日各種団体の取締りを行う。

政府のみならず軍部も戦闘を望んでいなかったのです。このため日本側の不拡大方針で、特に障害もなく停戦協定が結ばれました。ところが、状況は日本側が望むような方向には展開しなかったのです。治安状態は不安定で、日本人が経営する商店、工場などが襲われました。また、日本人居留民に対しても、暴行、虐殺、テロが頻発しました。

日本兵の殺害も、「大紅門事件」「廊坊事件」「広安門事件」、そして有名な「通州事件」などが相次いで起こっていたのです。通州事件については、歴史の事実ではないいわゆる「南京大虐殺」にカムフラージュされており、自由社から刊行されている「新しい歴史教科書」のみが教科書としては取り上げています。

そもそも日本の教科書に「南京事件」が取り上げられるようになったのは1982(昭和57)年の教科書誤報事件以降の話であり、中国が教科書に取り上げるようになったのは、その後の話です。その時点で信憑性に疑問を持たなければならないでしょう。通州事件の戦況については、藤岡信勝監修「通州事件」(自由社ブックレット)をぜひお読みいただきたい。

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