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石原莞爾平和思想研究会コミュの上海近郊の首都防衛

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將介石は、世界が注目する国際都市上海での対日抗戦を重視し、精鋭部隊を中心に上海周辺への兵力の増強を図りました。上海方面の中国中央軍は15個師団(30万前後)に達していました。その後も中国軍の兵力投人は続き、最大70万に達したとされています。

他方、国民政府はソ連との提携を意図して中ソ不可侵条約を締結しました。ソ連の対中武器援助が開始され、翌年からソ連による対中借款供与、本格的武器・軍需物資援助、軍事顧問団派遣が始まりました。

なお、中ソ不可侵条約には、中国と日本が正常な関係を公式に回復するまでは、日本とは不可侵条約を結ばない、との秘密協定が含まれていました。これが、のちに日本がソ連に対し不可侵条約の締結を申し入れた際、ソ連側が難色を示し、日ソ中立条約(1941年4月)となった重要な要因でした(ボリス・スラヴィンスキー「考証日ソ中立条約」)。

また、国民党と共産党との連携交渉も進められ、第二次国共合作(第一次は北伐前の1924年)が正式に成立します。さて、上海では、海軍陸戦隊が優勢な中国軍によって苦戦するなか、上海派遣軍約6万が、上海北部近郊に上陸した(二個師団基幹、松井石根軍司令官)。

だが、中国軍は、重火機装備のトーチカを多数配置した強力な防御陣地を重層的に築き、縦横に走るクリーク(水濠)を利用して頑強に抗戦。日本軍は苦戦に陥った。上海近郊に張り巡らされたトーチカ陣地は、ファルケンハウゼン指揮のドイツ軍事顧問団の援助によって周到に築かれたものでした。

第一次上海事変によって非武装地帯とされた地域にも、中国軍はすでに兵力配備・要塞建設などをおこなっていたのです。日本側は、この非武装地帯(上海市北側から揚子江沿岸に広がる地域)への上陸を予定していました。

中国側は、上海近郊を首都防衛の重点地域として、中央直系の精鋭部隊を中核として兵力を集中していたのです。上海派遣軍は激烈な反撃を受け、損害が続出しました。戦場は、双方の機械化兵器による殺戮と白兵戦が入り乱れ、きわめて凄惨な状況となったのです。

日本側も戦車隊を投入しましたが、クリークの多い地形に阻まれて、ほとんど威力を発揮できませんでした。中国の情勢分析を担当する情報部支那課では、かねてから華北分離工作を進めていた関係から、政治・経済・外交関連の情報収集に主力を注いでいたのです。

それゆえ中国の軍事上の情報収集・分析が手薄になっていたのです。石原莞爾も、上海方面の中国軍が増強され、戦闘はきわめて困難な状況に陥ると予測していましたが、現実には予想をはるかに上回る事態となってしまったのです。

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