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石原莞爾平和思想研究会コミュの横山臣平元陸軍中将の意見

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関東軍は政府、軍中央部の反対を無視して事変を拡大し、少数兵力にもかかわらず、吉林、ハルピン、チチハル、錦州を落とし、半年後には満州国という新国家を建設したのです。この中心的人物はもちろん石原莞爾であり、これを効率的に進展させたのは、本庄繁軍司令官や板垣征四郎らでした。

ここで、石原莞爾の同期である横山臣平元陸軍中将の意見を掲げます。石原は東亜連盟の主唱者で、將介石はじめ中国要人から認められ、日本軍閥が主張する権益主義などというケチな考えが毛頭なかった。大義名文のきわめてはっきりした男である。

才幹気節ともに天才的で、機略縦横の実行力を有していたから、その実行に激越な点が多く、事変処理の中心的存在として、その越権行為が軍の中央部との間に大きな問題となったのである。その第一は石原が軍司令官や参謀長に一言も知らせないで、事変の発端となった鉄道爆破を企図し実行したことである。

第二は、関東軍が事変処理に当たり中央部の不拡大方針をまるで無視、独断で拡大的解決策を強行したことである。その一は確かに石原ら一部将校の越権行為であって、軍の成立上許しがたい軍紀の大問題であろう。

それに対して板垣、石原らは、だれよりも苦慮し、将来の必罰を覚悟していたことはもちろんであり、かくすればかくなるものと知りながら 止むに止まれぬ大和魂(吉田松陰辞世)、の心境であったと思う。もし、この爆破計画に対し、軍司令官や参謀長の許可を得ようとしたならば、当然阻止されるに違いないので、この計画を放棄するにひとしい。

とうてい結果は実現しがたい。この国家百年の大事と軍司令官の認許問題とを秤にかけたら、どちらが重いだろうか。このさいだれかが責任を負って起つほかにはない。窮極の場合、「われ日本の柱とならん、眼目とならん、われ日本の大船とならん」という石原がかねて信仰の日蓮精神をもって断々固として、それを遂行せんとしたのである。

その二は、前項といささか趣を異にするものである。石原らはかねてから政府、中央部の満州問題解決方針に対しては、非常に不満であった。とくに国際情勢の判断において、両者に大きな開きのあったことは前述の通りである。石原らは、この中央部の方針では、満蒙問題の抜本的解決はとうてい望むべくもない。やるなら今だ。

中央の方針に従うことは、いたずらに時機を失し、彼らが正しいと信じている国策の遂行はますます困難となるばかりである。中央の指示をまつことなく、われわれの手で断行する以外に解決の途がない。中央の考えは満蒙の現状にそわないばかりでなく、問題解決のチャンスを失う恐れがある。

「よし第一線部隊の指揮官に与えられた特権、独断専行で行こう」となったものである。関東軍司令官は、陛下の御委任を受け、その権限は勅命以外、何者からもせいちゅうを受けるものではない。

したがって参謀総長の方針、指示に対し、現地の状況上からみて不適当と判断した場合は、それに従うことなく自分の判断に基づき、独断善処すべき権限を有することは当然で、軍司令官は勅令によらざる中央部の意図を実行しなくとも、統帥上なんら不軍紀とはいえないのである。

事変の結果からみれば、関東軍の判断と事変処理とが正しかったといわざるを得ない。その場合、本来、軍司令官と三宅参謀長が、一部の人々からロボット的存在であるかのごとくいわれたが、いちがいにそうはいえないと思う。

本庄将軍も三宅参謀長も、板垣や石原の人物とその非凡な鬼才を認め、この男ならいかなる大事を一任しても大丈夫であると、全幅の信頼をおいたことは、将帥としてまことに敬服に値するというべきである。日露戦争のとき、大山巌総司令官が総参謀長の児玉源太郎大将にすべてを任せて、一言も口を出さなかったのと好一対である。

石原の智謀は、児玉に優るとも劣らないことは言を要しないであろう。石原についてとくに問題となったのは、例の「下剋上」であるが、石原という男は、ことに当たり俊敏で直情径行、法規、形式、前例などにこだわらず、独断壁が強く、人の意表に出る場合が多いから、どうしても下剋上的言動を露骨にあらわすのである。

彼の性格をよく知っている私は、彼の関東軍参謀への転任の報に接したさい、満州でなにか大きな事件が起こるような予感がした。果たして現地からの便りで、石原の下剋上的な言動の情報がぞくぞく到来し、間もなく満州事変が起こったのである。

私は石原の関東軍参謀転任について、ある人に話をしたさい、「石原を満州にやることは虎を野に放すようなものである」といった憶えがある。石原は事変がひとまず解決すると、満州事変の張本人として数々の越権、専恣、下剋上などの軍律上の問題に対し、深く反省するところがあり、ただちに辞職願を提出し、頭をたれて処罰を待った。

だが、彼の願望は入れられず、昭和七年八月の異動で大佐に進級し、内地に帰還することになった。この進級は同期生のトップである。石原はこんなとき、頭の切り換えが早く、過去の出来事には無頓着な男であるが、しかし、満州を離れるにあたり、ただ一つ、心残りがあった。

それは、「今後の満州国は、果たして自分の考えどおりの五族協和、王道楽土の理想郷として立派に成育、発展するだろうか――」という一抹の不安であった。石原が内地へ帰る日、新京飛行場には各界の名士が見送りに来た。

しかし、石原はその人々には目もくれず、見送り人の片隅にひっそりと立っている長春花街の芸者連中を見つけると、その前に歩み寄り、彼女たちの手を握り、「君たちには、ほんとにお世話になった。身体を大切にしてくれよ」といい、機上の人となった。あっという間のできごとだった。

「ヤツは放れ業の名手だな」板垣参謀は、そういいつつ鼻柱にシワをよせて苦笑した。この晴れがましい衆人環視の中で、もっとも立場の弱い女性に厚意を示したのが、いかにも石原のやりそうなことだった。並みの男なら、かりに馴染み芸者を見つけても、噂を恐れて、近寄るどころか目をそらすのに、である。

ところが、石原の場合は酒もタバコも口にせず、芸者のはべる宴会には出席しなかった。そのわけは若松連隊付青年将校時代、ある芸者から、家を救うためにこの世界に身を落とした、という身上話を聞き、この不遇な女性たちを遊びの相手にする気になれなかったからだ、という。

芸者遊びをしたことのない石原莞爾が、「君たちには、ほんとにお世話になった」と言ったのは、宴会で世話になった日本人、とくに関東軍の幕僚たちに代わって礼を言ったのではないだろうか。

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