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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾の軍事研究

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ドイツ留学の成果大正十年(1921年)七月、石原莞爾は陸軍大学校兵学教官を命じられました。石原莞爾の優れた才能、それに中支那派遣隊司令部における対支経験と知識を活用させるためには、参謀本部動務がもっとも適当であるにもかかわらず、兵学教官を命じられたのは軍の中枢に敬遠されたからです。平たくいえば厄介払いではなかったか。

それはともかく、陸大校長宇垣一成中将、幹事阿部信行少将は、石原莞爾が支那派遣を望み、ドイツ留学を敬遠していたことを知っていたため、「あれだけの人材を支那通だけで終わらせたくない。それには欧州を広く見聞させ、しかる後、支那間題などに関与させた方が、さらに優れた実をあげることができる」と考えました。

ちょうど一年後の大正11年7月、ドイツ留学を命じました。石原大尉がドイツに留学したときは、ベルサイユ講和条約が成立してから三年後でした。ドイツには第一次大戦に参加したヒンデンブルグ、ルーデンドルフなどの名将が健在で、石原莞爾の軍事研究にとっては好都合でした。

ヒンデンブルグは、参謀総長として国政にも関与し、戦後引退しましたが、ドイツ共和国第二代大統領となりました。またルーアンドルフは、第一次大戦で東部戦線参謀長、大本営幕僚長を勤めた人物です。石原莞爾の研究テーマはいくらでもありました。第一次大戦には、ヨーロッパの列強はもちろん、バルカン諸国もこれに参加しました。

総兵力は一千万、戦場は欧州全域とアジアの一部となり、その交戦は4年5ヶ月の長期にわたったのです。したがって軍事、国民生活にあたえた影響は甚大でした。このとき、石原莞爾のように底知れぬ知識を持つ人物を欧州に派遣することは、まことに時宜を得た人事というべきでした。

石原莞爾は期待にたがわず、多くの文献を集め、研究し、また著名な兵学者を訪ねて意見を交わし、ドイツ兵学界でも、彼の研究熱心が噂されるほどになりました。石原莞爾は同じころ、ドイツに留学中の安田武雄工兵大尉(のちの航空総監)から、ルーデンドルフ将軍のグループと、ベルリン大学のデルブリック教授との間で交わされている国防論争に関する話を聞き、さっそく両者の主張を研究したところ、彼が漢口で考えた決戦戦争と持久戦争の区分・特徴と、デルブリック教授の殲滅戦争と消耗戦争の区分・特徴と一致していることを知り、驚くとともに研究に自信がついたようでした。

石原莞爾は教授の学説から、持久戦争の代表的人物はフリードリヒ大王であり、決戦戦争の天才はナポレオン一世であるとの結論を得たのです。そして、彼がかねてから考えていた戦争学を研究する前提として、両者による戦史の研究が重要、真崎甚三郎大将がドイツ視察に出向しました。

1916年3月、第一次大戦における作戦計画を行なったリール大将を訪ねることとなりました。案内役は石原大尉でした。いよいよ両者面接となったが、真崎大将より石原大尉の質問が多くなり、リール大将が返事に窮するほどだった。しかし、急所をついた質問にリールは喜び、真崎大将そっちのけのリール、石原会談になってしまったのです。

会談が終わって邸を辞すときにはリール大将は玄関まで送ってきて、石原大尉に向かい、「今後も忘れずにたびたび来て欲しい」と言った。お世辞ではなかった。このときを境に、真崎大将は石原莞爾を嫌うようになってしまうのです。

彼は、しゃべることもすることもすばやいし、大変腕もたつ、いわゆる口も八丁、手も八丁。しかし、この場合、つまり真崎大将に見放されたような場合”口は禍いの門”と言うが、石原莞爾はいっこうに痛痒を感じていなかったようです。なお付記すれば、真崎大将は昭和11年(1936年)に起こった二・二六事件の黒幕とみられている人物です。

本日は天皇陛下のお誕生日です。実は恐れ多くも私の誕生日でもあります。皆様、早朝からたくさんのメッセジや書き込みありがとうございます。感謝いたします。(^_-)-☆

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