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石原莞爾平和思想研究会コミュのマーク・ゲインのニッポン日記

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以下は、マーク・ゲインの『ニッポン日記』から引用します。なお、以下の発言は、講和条約を結ぶ前の日本、つまりまだ交戦状況下での発言であることに留意する必要があります。「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう。戦線を縮小し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すれば、もっとうまくやれたと思う」

「日本の指導者たちがミッドウェーでの敗戦の意義を理解し、ソロモン群島の防衛陣を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方したにちがいない。山本五十六大将らは誤りをおかした。どこに根拠地を求めるか知らなかったからだ。サイパン失陥をきいたとき、私は敗戦を覚悟し、私は中国とは和平できたと思っている。」

「われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に滲透させることさえできたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。」

「蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたら、満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよとの意見だった。勿論われわれはソ連と戦う意志はなかった」

このあと、石原莞爾は、東條英機は無能な男と語ります。「対中国政策に関しては、東條と私との間に別に意見の相違はなかった。なぜなら東條という男は、およそプランなど立てうる男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよく出来る。」

「しかし中国政策というような大問題に関しては全く無能だ。彼は臆病者で、私を逮捕するだけの勇気もなかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落の一因でもあった。東條は右翼の一部を除いては、誰からも支持されていなかった。東條を首相の位置につかせた連中は全然思想を持たなかった。ただ政治の波の頂に便乗したにすぎなかった」

東條に迫害され続けた東亜連盟会員とマッカーサーについても語っています。「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた。東條も連盟を弾圧しようと試みたが、連盟は朝鮮でも満州でも、また中国においても、力強い勢力を維持し続けたのだった。」

「マッカーサーが東亜連盟を解散させたとき、われわれは日本の軍国主義者とアメリカの軍国主義者とは何の違いもないことを知った。東亜連盟こそは、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」

「今日、われわれは集会を持つことも許されないし、私の同僚は終始監視下にある。私の妻が私に逢いにくるのにさえ、米軍当局の許可を得なければならない。私の手紙は検閲され、私の郷里あての東京からの手紙などは、最小限三ヵ月かかる。東條時代も郵便は厳重に検閲されていたが、それでも一週間以内には届いたものだ」

「私の参謀本部時代、秩父宮(天皇の弟)が私の部下であらせられた。殿下こそは陛下と国民を呼びつけ、戦争を避けることができた唯一人の方であった。殿下は日華事変開始に反対された。不幸なことに、事変勃発当時、殿下は欧州におられ、何もなさることができなかった。」

「近衛公の回顧録をお読みになったのなら、1941年の9月から12月にかけて行われた会議のことをご記憶でしょう。当時の会議で、日華事変を惹き起した陸軍の一派は、より大規模な戦争に訴えることなしには事変の解決はできない、という考え方を使眺した。この一派は驚くべく墜落した卑怯者だった。私も勇敢な男じゃないが、秩父宮殿下のご支持さえあったら、私は戦争を回避させることができたと思う」

「私は今55だ。私は鶴岡の貧乏侍の家に生れたが、鶴岡というところには金持ちは殆どおらぬ。金を持っているのはたいがい地主か商売屋だ。私の父は軍人で、私を軍人に育て上げてくれた」

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