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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾と奥田滋栄の出会い

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東條英機中将が陸軍大臣に就任した時、腹心である武藤章を軍務局長に任命したほか、統帥、行政両面の要職には、やはり己の息のかかった者のみを抜擢しました。まさに東條軍閥ともいうべき権力機構が出現したのです。

一方、秋の師団演習を終え、管下各府県の巡視をおえた石原師団長は、京都に腰をすえ、東條軍閥に対し闘争を開始しました。東條英機と石原莞爾の対立は、関東軍の参謀副長以来の宿命的なものです。

石原莞爾が東亜連盟主義に基づいて満州国建国を推進し、五族協和、王道楽土の夢を実現しようと努力してきたものを、根底からくつがえしたのは東條英機といえるでしょう。その東條英機が、陸軍大臣の座を占め、日本国民を世界大戦に駆り立てようと企図しているのです。日本の平和を望む石原莞爾としては、黙視することはできません。

「東條軍閥が続く限り、国軍の将来はなく、日本は亡国の道を辿るしかない」と断言し、日蓮を思い起こすような激しい折伏を続けて行きました。石原は東條陸相を「東條軍曹」と呼びすて、武藤軍務局長を「武藤上等兵」と決めつけて、その無思想を攻撃した。

そして、政治と戦略の貧困を指摘し、「東條は軍と国の運命を託する陸軍大臣としては不適当である」と糾弾して、東條陸相およびその一統の即時退陣を執拗にせまったのです。師団長解任は覚悟のうえ、一身を賭けた壮絶きわまる戦いでした。

だが、師団長は天皇の親補職です。したがって陸軍大臣といえども、師団長の統帥は言うにおよばず、その思想信念に対する介入は絶対に許されないところでありました。石原莞爾は透徹した哲学と信仰にもとづいて正々堂々と論陣を張り、陸軍の体質改善と方針の転換、さらに国策の思い切った軌道修正を強く要求しました。

当時、京都周辺には、中将、少将を合わせて十数名の在郷軍人が在住していました。彼らは将官会議を組織し、相互の親睦、意見の交換を行なっていたのです。会合は定期的に師団の偕行社で行なわれ、師団長出席が慣例になっていました。

師団長はその席上、師団の現状、軍全体の動き、時局問題などについて講話するのが従来からの申し送りとなっていました。昭和15年12月上旬、師団偕行社で定期会合が開かれましたが、その時の幹事役は、奥田紘一郎の実父奥田滋栄退役少将でした。

奥田滋栄は、明治43年に、会津歩兵第十五連隊で新任少尉だった石原莞爾と初めて会いました。会津連隊の将校団に対する戦訓講話の席上でした。一方は任官して半年もたたない新品少尉であり、他方は歴戦できたえ抜かれた大隊長です。二人の陸士卒業年次には十六期もの開きがありました。

その戦訓講話が終了した後の会食時、石原少尉が奥田少佐に種々質問したのが交友のきっかけとなったのです。そのときは双方とも知らなかったが、後年になって、石原、奥田のそれぞれ実父が明治維新後、警察官の同僚として親交があったことを知り、親近感を深めたのです。

石原莞爾の父石原啓介は旧庄内藩士で漢学者でした。奥田滋栄の実父中野重村もまた、旧会津藩士で江戸留守居役という身分でした。奥田鉱一郎の父は、母と結婚してから奥田家の夫婦養子となったのです。庄内、会津両藩とも、戊辰戦争で徳川幕府への節義をつらぬいて、最後まで戦いました。

そのため賊軍とののしられ、維新後はひどい仕打ちを受けました。官軍に参加した諸藩の武士は陸海軍将校として採用されましたが、庄内、会津両藩の武士たちは下士官にも採用されず、結局、邏卒に甘んずるしか道がなかったのです。両家も藩の家老職までつとめた家柄だったのですが、ともに角棒を持つ警邏からはじめたと言います。

その後、両者の父は、ともに警部まで昇進し、隣県同士の警察署長として気脈を通じ、それから没するまで交際が続いたと言います。そんな経緯があったのを知った石原、奥田の二人は、絶えず文通をつづけ、しだいに温かい友情で結ばれていったのです。それが久々に京都師団偕行社で、一方は現職の師団長として、他方は京都将官会議の幹事役として邂逅したのです。ともに感慨深いものがあったと察せられます。

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