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石原莞爾平和思想研究会コミュの宮沢賢治と石原莞爾

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農政指導にも力をつくした童話作家に宮沢賢治がいます。大正時代から昭和時代前期の詩人・童話作家。教師をしたり、農業指導をしたりしながら、童話や詩を書き続けました。「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など、名作が今も広く読みつがれています。

宮沢賢治は、現在の岩手県花巻市の質店の子に生まれました。屋外の遊びが大好きな少年で、特に石集めに熱中していたため、「石っこ賢さん」とよばれました。父は質店を賢治に継がせたいと考えていましたが、人のよい賢治は、品物を受け取らずに金をあたえてしまうため、父は賢治に商売は無理だとあきらめました。

賢治は盛岡高等農林学校(今の岩手大学)に優秀な成績で入学し、地質調査や農業の研究をしました。また、友人と同人誌「アザリア」を出して、短歌や小説を発表しました。卒業した賢治は1920年、日蓮宗の団体「国柱会」に入り、熱心に活動しました。そしてこのころから次つぎと童話を書くようになりました。

賢治は、稗貫(花巻)農学校の教師をしたり、化石調査や農業指導をしたりしながら、童話や詩をつくり続けました。1922年妹が結核で亡くなったときは、悲しみでしばらく作品を書けなくなりましたが、1924年に、詩集「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」を出版しました。結局、賢治が生きているうちに出た本は、この二点だけでした。

やがて働きすぎのつかれからか、賢治は病気がちになり、37歳で亡くなりました。生きているうちに出た作品はごくわずかでしたが、死後、今では多くの作品が読まれています。農政指導していた賢治は、石原莞爾平和思想研究会の会報誌にも紹介されていましたが、宮澤賢治は玄米を食べていたというのです。

宮沢賢治と石原莞爾は、同じ宗教団体である国柱会で同門の間柄です。毎年、石原莞爾の法要は国柱会で行なっていました。宮沢賢治のお墓もございます。国柱会とは法華経を元にした思想団体で教主であった田中智学の教えの中の「八絋一宇」という言葉は、日本書紀からの造語で「世界が一つの屋根の下で仲良く平和に暮らしましょう」という意味です。

戦後の言論人の言うような侵略を意味する言葉では決してはありません。宮沢賢治の農民論には、「世界全体が幸せにならなければ個人の幸福はありえない」とか、「雨にも負けず・・・」の詩、そして数々の博愛的な童話の中には、この田中智学の教えと法華経につながるところが多くあるのではないかと言われています。

石原莞爾と宮澤賢二の大きな共通点が、玄米を主食にしていたということです。宮澤賢治が玄米を食べていたことは、「雨にも負けず」の詩の中に、「1日に玄米4合・・・」とあることが明らかです。1日玄米4合はいくら何でも多すぎると思いますが、私の父は石原莞爾と一緒に暮らしていたので石原莞爾も早くから玄米を主食にしていた事を知っています。

昭和25年、郷里山形遊佐町の開拓小屋で、多くの人々に見守られながら没しましたが、無くなる前にこれからの日本の進むべき道として、戦争放棄はもちろんのこと、農工一体、都市解体、簡素生活の平和三原則を遺しました。その根幹をなしていたのが石原莞爾の自ら実践していた「玄米菜食」でした。

つまり、都市への過度な人口集中は公害、病気、犯罪の多発と農村の疲弊を招き、国力が不安定で弱体化するので、日本全国の地方に農工一体型の拠点をたくさん作り、それらの基礎として、国民が玄米菜食を中心とした簡素な食事をし、健康を維持すべきであると説いたのです。

しかし、現状は、これと正反対に、超高層ビル乱立の東京一極集中と、白米と肉の多食による贅沢なグルメブーム、白砂糖とミルクを多用するスイーツブームなどは、簡素生活から最も正反対の極にあります。玄米の身体への効果としては、便秘やダイエット、癌の予防などです。ただ玄米はよく噛んで食べないと私は下痢をしてしまいます。(笑)

秋に見学してきましたが藤原氏が奥羽の地に覇を唱え、平泉に黄金文化を打ち立てました。イーハトーヴは、宮沢賢治ゆかりの地です。37歳という若さでこの世を去りました。岩手では、「岩手人で最も好きな人物」として宮沢賢治をあげる人が多いです。

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