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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾の墓所

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酒田臨時法定が終わると、石原莞爾は私の父や同志がひくリヤカーに乗って西山農場に帰りました。農場の同志たちは、喜びのあまり涙すら浮かべて石原莞爾を迎えました。同志の熱意と汗の結晶である農場は、見渡すかぎり緑におおわれています。石原莞爾もまた涙をぬぐいもせず、愛しきわが子を見るように麦畑を見つめています。

五月の太陽はさんさんと輝き、薫風が石原莞爾の頬をなでてゆきます。わずかな時が流れて、石原莞爾は静かに合掌し、そして同志の一人一人と手を握り合い、彼らの労をねぎらいました。いったん農場の片隅にあるあばら家に落ちついたものの、リヤカーによる酒田往復、それに法廷での無理などがたたったのか、病状は急速に進行していった。

そのため、またもリヤカーで鶴岡の病院に運ばれ、最終的な開腹手術を行なりましたが、一時的には小康状態となったものの、回復の見込みはまるで立たなかった。ところで、石原の病気は関東軍参謀であった昭和五年、馬から降りるとき、軍刀の柄の先端で部と肛門の間、会陰を突いてしまった。そのさい尿道に裂傷を受けたのが原因です。

満州事変中も血尿で苦しんでいたのですが、その後、無理をしたためにウイルスが勝胱に侵入して適に以移行していた。そのうえに昭和24年(1949年)春、風邪をひいて肺炎となり、これがこじれて肝水腫を併発していた。

再起困難な己れの運命を悟っていた石原莞爾は、すでに手がけている「日蓮教入門」の脱稿を、存命中になし遂げたいと精魂を傾けました。そして、自ら筆をとるのが困難になると、同志の協力で口述筆記を行ないました。続いて「真日本の進路」について書をしたため、昭和24年7月8日、マッカーサー司令官に提出しました。

この頃の石原莞爾の姿は、菩薩、いや完全に生き仏になりきった、といわれています。朝に夕に、石原莞爾が朗々と唱える「南無妙法蓮華経」の響きは、開拓にいそしむ同志たちを励まし続けていました。

このように雄々しく生きる石原莞爾でしたが、8月13日の夜半から尿閉塞を起こし、14日夕刻には「背中が寒い」と言い、呼吸困難と胸の圧迫感を訴えました。隣家の高木、知人の舟嶋、水越の三人が石原莞爾の背中をさすり、夫人が右手、知人の白土女史が左手をしっかり握って一心に祈っています。

「さあ、いよいよ、この世の別れだ。みんな一緒にお題目を……」と石原莞爾は澄んだ声で言い、率先して唱題をはじめました。みんな大声をあげて石原莞爾に続き、お題目を唱えはじめました。涙があふれて音声が落ちると、石原莞爾は、「泣いちゃいかん」と注意します。そのうち法弟たちがぞくぞくと駆けつけてきました。

瞑目してお題目を唱えていた石原莞爾は、目を大きく見開き、つぎつぎと手を握り、「お世話になりました。さようなら。元気で頑張って下さい」と別れの言葉を述べます。狭い家だから、お見舞いの人たちは土間までぎっしり。みんな涙をこらえ、必死になってお題目を唱えています。

石原莞爾を慕っている人たちばかりだから、普通のお見舞いとはまるで違う。実の父親と、この世の別れをするときのようでした。顔に悲しさがただよっています。脈搏が不規則で、しかもとぎれとぎれだったのに、なぜか突然、しっかりと打ちはじめた。手足は不思議に温かい。みなの顔にも、束の間、ほっとした表情があらわれた。

石原莞爾は笑いながら、「簡単にはあの世へ行かせてもらえないらしいな。これではお題目のご利益も、かえってありがた迷惑ってもんだ。早く楽になろうと思っているのに」と冗談を言う。悲しみにとざされたみなの心に、わずかでもあかりを、と思ったのではないか。自分にも辛いことや悲しいことが山ほどあるのに、他人の悲しみを思いやるのは彼の習性でした。

つづけて石原莞爾は、「この調子だと、長びくらしいから、治療の人だけ残って、あとの皆さんはひとまずお引き取りいただこう。ゆっくりお休み下さい。本当にありがとう」とはっきりした声で言った。やがて8月15日を迎えました。そして午前2時ごろになると、石原莞爾はなぜか時間を気にするようになりました。

柱時計がボン、ボン、ボン、ボンと午前4時を知らせた。5分おきぐらいに時間を聞いては、口をかみしめる。痛みが激しくなったのだろう。石原莞爾は握っていた夫人の手に突然、力を込めると、全身を痙攣させてのけぞった。そして、脈が止まってしまった。「お別れです」侍医の声で、いっせいに号泣がおこりました。

昭和24年8月15日午前4時55分。61歳でした。石原莞爾の生きた時代はじつに石原莞爾の偉才を発揮させる天与、絶好のチャンスでした。しかし、日本の運命を左右する最後の正念場で、意見を異にする人々に妨害され、軍を追われ、彼の叡智と戦略的卓見はすべて葬り去られて、ついにわが国最悪の悲劇を起こすこととなったのである。

戦争に対する石原莞爾の予測はすべて的中しました。そして戦後、虚脱状態となり、日本人としての矜持を失った国民に対して、最初に「この試練を堪え、日本民族としての自覚に目ざめ、進むべき道」を説き、国民に感銘をあたえたのは彼、石原であった。

石原莞爾が、十年、いや数年でも生き延びることができたなら、戦後日本の再建に貢献し、新生日本の進路に正しい進路を示唆したはずです。葬儀は8月25日、西山農場東側松林の砂丘で執行されました。会葬者は、主として石原莞爾の徳を慕う者500名でした。この式場跡に設けられた円形の塚が石原莞爾の墓所です。

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