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石原莞爾平和思想研究会コミュの故郷へ帰る

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東條英機の石原莞爾に対する態度は、嫌がらせをはるかに越えた圧迫、脅迫であり、それが益々酷くなりました。憲兵と特高警察は四六時中、石原莞爾の身辺につきまとい、言動の監視、大学における講述の出版を差し止め、また講演に干渉を加えることもありました。

石原莞爾はこれら妨害に対しては、憲兵などを反対に怒鳴りつけるので、彼らは主催者側に圧迫を加え、講演などを中止させる手段をとりました。とくに、立命館大学に対する弾圧は常識をはるかに越えていました。

学校側も学生も、石原莞爾の人格と識見には尊敬と信頼を寄せているのですが、官憲の度はずれた干渉には耐えがたいものがありました。この間の経緯を承知している石原莞爾は移転を決意し、師団長に着任して以来、満三ヵ年も住んだ京都の地に別れを惜しみつつ、老母と夫人をともない、生まれ故郷へ出発したのです。

郷里山形県鶴岡市の石原莞爾の住み家は、故高山樗牛の生家でした。故郷での生活は晴耕雨読なものでした。国の将来を思って眠れぬ夜は、読経により心を静めていました。来訪者に対しては問われるままに歓談し、とくに東亜連盟などの講演会にはかならず出席して、聴衆に感動をあたえました。

石原莞爾の講演は型破りだから、聴衆の受ける感銘も大きいのですが、盛岡市で行なわれた東亜連盟主催の講演も、後々まで伝えられるほどのエピソードがありました。会場を埋めつくした市民に、「盛岡のみなさん、喜んで下さい」と、まず呼びかけています。

東條首相は盛岡の出身だから、石原莞爾はまず郷土の誇り、東條首相を褒め称えてくれるものと、聴衆はつぎの言葉を待ちました。ところが、案に相違して、「あの東條という男は、盛岡の本当の市民ではないのです。祖父が能役者で盛岡に流れて来て、盛岡がいい街だから住みついてしまったのです。」

「ただそれだけの関係ですから、孫の東條も、根っからの盛岡人とは言えません。あんな馬鹿者が盛岡市民でなく、東北人の血を引いていなかったことは、お互い東北人として、大いに喜びとするところであります」と、のっけに一発かましてしまったのです。

すると、臨官席で監視中の警官が、「弁士中止」と叫びました。石原莞爾は、こともなげに、「何を言うか」と壇上からやり返し、演説を続けたのです。新時代において、最高レベルの文化を達成することは、科学の分野で優越することを意味し、科学こそ世界強国への最も確かな道になると語ったのでした。

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