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石原莞爾平和思想研究会コミュの東亜連盟に殉死す

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重慶の蒋介石主席に直結する和平路線は何れか、これが小磯内閣成立の直後から動き出した重慶政治工作の眼目でした。当時、最高戦争指導会議に報告された参謀本部の資料に八路線あるのです。支那総軍の情報主務者、今井武夫参謀副長がネグッていたからです。軍部も、外務官僚も自分を経由しない民間路線はインチキであると潰しにかかったのです。

小磯国昭、緒方竹虎を目の仇としました。ルートは、南部圭助、田村真作が石原完爾、緒方竹虎、小磯国昭を繋ぎ、その一方では、陳長風、戴笠、蒋介石に直結していました。緒方竹虎は一1943年に上海で懇談しており、小磯国昭は、昭和14年の拓相時代に、田中武雄次官の紹介で二度に亘り会談しています。

緒方と小磯は連名で上京に便宜を与えるように支那総軍宛に手紙を書いていました。田村真作は19年8月16日、連名のこの書をもって支那総軍の松井太久郎参謀長に、飛行機の座席を提供するように依頼しました。松井中将は、小磯直系の人でありました。

だが、南京政府以外の手による和平工作を禁止する、という外務省通達を楯にして大使館付武官兼務の今井武土参謀副長がこれをボイコットしたのです。10月に再度、田村真作が催促のため上京した時、柴山次官は「南京政府でやっているから、手を引いてくれ」と緒方竹虎に返事しています。

戦局の前途を憂えた石原莞爾は、9月16日、田中久大佐に、皇族内閣奏請の急務を説いた進言書を托して、小磯総理に届けた後、26日に自ら上京して、東久、宮と小磯に、再び皇族内閣の実現と重慶に通じる和平推進の決意を要望しました。小磯総理の陸士以来の親友山県初男元大佐が総理の特使として、上海に到着したのは20年1月18日でした。

「中日全面和平実行案」をまとめて仮協定したのは1月末のことです。その間、公館の奥に陳長風の部屋ができました。仮協定は元李、章公館であった蒲石路の栄老宅に密かに置いたのを無電機で重慶と交信して承認をとりました。山県の帰国の座席は軍に催促したのですが、遂に手に入らなかったのです。

山県は大使館の立川宗保書記官に座席を譲ってもらって福岡に飛び、汽車で着京したのは2月20日でした。それは、機関一行七人が、重慶と直接交信用の無電機をもって上京する予定の日でした。小磯総理は、東京、重慶交信の真偽を確かめるために、別に傍聴機関を北京に準備し、上京を軍に督促しました。軍務局長名の電報が南京総軍に来ました。

陳長風を交えて協議の結果、一人でも行くことに決まりました。3月16日、相内重太郎を案内役に中華航空の民間機で羽田に到着し、緒方竹虎に迎えられて麻布迎賓館の客となりました。21日、最高戦争指導会議に唯一の和平工作は、中国からの全面撤兵と南京政府の解消を骨子とし、蒋主席の意志確認の上で、緒方を専使として派遣する内容でした。

仮協定には、連合国との和平が前提でした。これに対して、重光外相が倒閣をほのめかして反対しました。理由は、和平工作は、必ず南京政府を通じるという申し合わせに違反するから信用できない、と気色ばんだのです。

杉山陸相は委任状がないといい、また、米内海相は、資格が明らかでないのに総理が会ったのは如何なものかと賛成せず、次回続行ということで散会したのです。その後、東久、宮は、杉山陸相と梅津参謀総長に再開を要請したが面従腹背でとり合わなかったのです。

小磯総理は、緒方竹虎の進言を入れて、4月2日、単独上奏しましたが、重光外相と木戸内大臣から反対意見を聞いておられた天皇は、4月3日に三大臣の意見を改めて微された上で、直ちに本国へ帰せ、と命じられた。これが原因で小磯内閣は5日、総辞職しました。

石原売爾は、3月30日付の太田照彦に托した、書翰を受け取り、直ちに上京し、4月3日麹町の五條珠実宅で二人の偉人は初めて相会し、夜の白むまで語り明かしました。4日朝、石原莞爾は早速、東久、宮と阿南惟幾航空総監を訪ねて繆斌工作の実行を強く要請したのです。

5日の朝、陸相の内命を受けた阿南惟幾が三鷹の自宅に来た田村真作に「自主撤兵ならやる。小磯はやめる必要はない」と言いましたが、小磯はすでに閣僚の辞表を取りまとめた後で一足遅かったのです。東久、宮の庇護のもと、桜の花が散り終るまで在京し、25日に帰国しました。小磯退陣後4月7日頃から、麹町六番町の五條珠実宅に匿われたのです。

珠実は田村の娘の師匠となった緑で東亜連盟の同志になっていました。また、この日、石原莞爾に会って後、日蓮宗に入信しました。3月末限の交渉期限の延長願を駐日大使館経由で重慶に電請し、2日間の許可を得ていました。帰国後、重慶は報告に基づき、善後委員会の設置を指示し、七局のうち最重要の渉外、財務両局は人選までして準備を整えた。

また、当時の駐日大使、培は緒方に、代理大使陳伯藩は岡田芳政に、後日、本物であった、と述懐していることはこの間の事情を物語るものです。5月25日、機関は重慶から解散を命じられたが、その日は、連合軍統合参謀本部が陸海、空の各参謀本部に日本本土上陸の第一次作戦命令を発した日でした。

また、交渉期限が3月末限とされたのは、翌4月1日が沖縄本島上陸決行日と、早くから決められていたからのことであろう。僅かに2日間の延期回答も首肯されよう。戴笠は、アメリカのOSSと合作したSACOの長でもありました。工作は、アメリカ軍の作戦と密着連動していたのです。

米軍は日本本土上陸作戦に100万の犠牲を見込んでいたので、それが避けられるなら、この和平工作は大いに価値があったのです。中国が戦勝に湧いた春節の数日前、蒋介石に褒賞され、褒賞金8万元を授与されました。1月29日、国際飯店二階の豊澤園で祝宴を催した。

論功行賞は戴笠の所管であったのですが、3月17日、彼が南京郊外で墜死するや、蒋介石側近のナンバー1は、CC団のボス陳果夫にとって代わりました。そして、22日、繆斌は逮捕され、4月3日、蘇州の江蘇高等法院で漢、裁判が行なわれました。彼は法廷で、東亜連盟と王道和平に尽した所信を堂々と主張しています。

そして、5月21日午前5時15分、漢、第一号として獅子口刑場の露と消えたのです。 享年43歳です。褒賞から一転して銃殺された原因は、東京裁判に日本側が提出した木戸日記等の資料に繆斌工作の記録があり、マッカーサー元帥が繆斌を証人として喚問することが予想されるに到り、口封じのために陳果夫が進言した模様です。

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