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石原莞爾平和思想研究会コミュの石原莞爾と蒋介石の誤算

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昭和12年七夕の盧溝橋事件は、蒋介石にとってはビックリする出来事でした。まさか、日中の全面戦争に発展するとは思っても見なかったのです。日中戦争への拡大は自然の成り行きで、実際、当時の日本政府も、蒋介石も、戦争など望んでいませんでした。

日本が大本営を設置し、戦時型にしたのは、戦火拡大後の同年11月になってからで、またその一方では、事態の不拡大方針を決め、和平交渉の道を模索していたのです。蒋介石も、共産党を倒して国内を安定させてから、対外戦を行なうのが原則方針だったから、対日戦争は避けたかったのです。

当時の中国軍は約2百万人で、各派、各系の武装勢力を合わせると約5百万人にものぼっていましたが、蒋介石の直系軍はさほど多くはないので、仮に2百万人としても、数だけとれば日本軍の7倍ではあるが、それでも正面から対決できる力量ではなかったのです。

日本軍で訓練を受けた軍人蒋介石は誰よりもそれを知っていて、実際、戦争突入後、国民党軍の弱さはいやというほど証明されています。共産党や、張学良らの軍閥は日本軍への「徹底抗戦」を主張しているので、蒋介石が先に日本軍と戦うことは、他ならぬ共産党が息を吹き返す恐れがあります。

延安で辛うじて生き延びていた共産党にとって、「抗日」は唯一の活路でした。共産党がそう言わないと、まず自分たちが蒋介石率いる国民党の餌食になってしまうからです。また国民党内部の反蒋介石・非蒋介石グループも「抗日」に同調する者が多かったのです。

なぜなら共産党を先に討滅しては蒋介石の絶対的権力が固まると、自分たちの出る幕がなくなってしまうからです。そこで共産党からも蒋介石を抗日に追いつめたのです。 これは、蒋介石の誤算であったのです。

結論はアジアの安定線をまず日本が確立して、アジアの平和、繁栄問題で蒋介石の国民党と話し合うことを良策と考えて、満州からロシア勢力を排除して、ソ連の国境線でアジアの平和線を確立して、蒋介石と話し合う方針でした。そのためには蒋以外の軍閥には強い意志で臨んでいましたが、中国民衆には慈愛で応対しました。

満州建国も満人を主体としての建国、日本人が中心になるなどとは毛頭考えていませんでした。ただ石原莞爾は干沖漢の提言には共鳴して、満州の防衛だけは日本の責任において担当する決意でした。それで各民族はあくまでも平等でなければ、対立を生んで、その対立は戦争となって又歴史は逆転すると考えていたので、民族の平等を念願していました。

日本民族の世界統一などは石原莞爾にとっては考えもしないことだったのです。世のいわゆる維新論者は、日本がアジアの指導者であり、世界の支配者となる事を自負しましたが、石原莞爾は日本民族が世界の指導者と呼称することはおこがましいとして、あくまでも世界民族と平等の立場においてこれを考え、己には極めて厳しかったのが石原莞爾なのです。

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